2010年9月1日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 はじめに

  
これからは、「コリントの信徒への第一の手紙」を主に信徒同士の聖書研究会で読むために書かれたガイドブックを翻訳掲載していく予定です。



コリントの信徒への第一の手紙を読むためのガイドブック
  
著者 エルッキ・コスケンニエミ (牧師、神学博士)
  
フィンランド語から翻訳編集 高木賢 (神学修士)
 
   
争いの最中で
  
はじめに
  
パウロのヨーロッパ伝道は、さまざまな困難の中ではじまりました。
使徒の働き16章はパウロとシラスが投獄されたことを記しています。
テサロニケとべレアから、パウロは危うく死にそうな目にあいながら逃げ出さなければなりませんでした(使徒の働き17章)。
ヨーロッパ文明のゆりかご、アテネでは、福音は嘲笑の的になりました。
これらのことを体験したばかりのパウロは、アテネから、悪名高い港町コリントへと向かいました。
パウロがコリントの信徒たちに、「私はひどく弱り、恐れ、震えながらあなたがたのところに行きました」(コリントの信徒への第一の手紙2章3節)と書いたのは無理もありません。
ところが、おびえる心でコリントに着いたパウロは、主の器として一年半の間、誰にも邪魔されずに働くことができました。
この時期の出来事については、使徒の働き18章で語られています。
人間的に計算する場合にはまったくありえないことだが、実はコリントには「神様のもの」となる人々がたくさんいる、と神様はパウロにお告げになりました。
主は約束されたことを実行なさり、多くの人の心を異教から引き離してキリストの方へと向けさせました。
まもなくユダヤ人たちはパウロが会堂(シナゴーグ)に入れないように邪魔しましたが、会堂の隣に住んでいた神様を畏れる異教徒のテテオ・ユストの家で、パウロは迷うことなく説教を続けました(コリントの信徒への第一の手紙18章6~7節)。
ユダヤ人と他の民族(「異邦人」)との間の溝は、現代の私たちの想像をはるかに超える深いものでした。
福音がこの溝の上に橋をかけました。
コリントの教会員の大部分は、以前異教徒でしたが、その中にはユダヤ人も含まれていました。
  
ほかの都市でも生じた艱難が、ついにはコリントでも起こりました。
西暦50年、アカヤのローマ人の最高指揮官なる総督として着任したルキウス・ユニウス・ガリオに対し、コリントのユダヤ人たちはパウロのことを訴えました。
ところが、総督は宗教に関わることがらを法廷で取り扱うことを認めませんでした。
この決定にもかかわらず、パウロはまもなくどこかほかのところで福音伝道の仕事を続けることに決めました。
こうしてパウロは活発なコリントの教会を後に残しました。
   
この教会に宛てたパウロの手紙は、全新約聖書の中でも最も大切な書物のひとつです。
コリントの教会はパウロにとって、いろいろな意味でやっかいでした。
まさにそのゆえに、パウロは全力を尽くして手紙を書かなければなりませんでした。
このことは、コリントの信徒への手紙から読み取れます。
そしてそれゆえに、とても読み応えのある手紙になったのです。