2007年10月29日月曜日

聖書は洗礼について何を教えていますか?

まずはじめに、ルター派の洗礼についての教えを紹介します。
以下の文章はもともとフィンランド語で、著者は、フィンランド福音ルーテル教会の牧師です。
彼は聖書に基づく素直な信仰を大切にしています。

「聖書は洗礼について何を教えていますか? 」

     ヤリ・ランキネン


おそらくあなたは洗礼についてさまざまな教えを聞いたことがあるでしょう。たぶん洗礼について論じ合う機会もあったかもしれません。この小文を通して、洗礼について、聖書は何を教え、ルター派のクリスチャンとして何を信じるか、はっきりさせたいと思います。

イエス様は洗礼を授けるようにお命じになりました、「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の御名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えなさい。見なさい、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのです」(マタイによる福音書28章19~20節)。イエス様が行うように命じておられることは、行わなければなりません。たとえ洗礼を授ける理由が他に何もわからないとしても、イエス様の命令は洗礼を授ける十分な理由になります。私たちのやるべきことは、神様の命令を評価したり批判したりすることではなく、それらに従うことです。

聖書は洗礼について他のことも語っています。聖書の教えは「キリストへのつながり」という言葉に要約できます。洗礼において人はイエス様に結び付けられ、こうして、イエス様やイエス様が御自分のみわざによって私たちのために得てくださったことに、あずかれるようになります。これについてパウロはローマの信徒への手紙の6章に書いています。すなわち、私たちはイエス様の死の中へと洗礼を受け、こうして、イエス様の死において起こったことにあずかるようになります。キリストへのつながりはまた、キリストの中へ隠れることでもあります。悪である人間がイエス様とその聖さによって覆われ、こうして、聖さを要求なさる神様に認められ、受け入れていただけるようになります。パウロが洗礼において生じる「キリストを上に着ること」(ガラテアの信徒への手紙3章27節)について語っているとき、意味しているのはまさしくこれです。このことを記念して、洗礼を授けられる者は、その上を覆う長くて白い服を着せられます。ペテロは「洗礼が罪の赦しをもたらす」と説教しています(使徒の働き2章38節)。「罪の赦し」とは他でもなく、「罪人なる人間が、ゴルゴタでイエス様が私たちの身代わりとなって死んでくださったその報酬として、自分のものとすることができる事柄」であり、「罪人なる人間がキリストを着せられること」であり、「これに基づいて神様が、神様に認められないはずの人間を、神様に認められ受け入れられる存在としてみなしてくださる」ということです。

これは多くの人たちにとって奇妙なことに感じられるようです。罪を赦されてイエス様にあずかる者になり、イエス様の中に隠れる必要があるのでしょうか?
もしも神様が今の多くの人たちが考えているような、「ただただ愛して、認めて受け入れて、ちっとも裁かれない」お方だとしたら、これは必要ではありません。しかし、神様はそのようなお方ではありません。神様は「罪を憎む聖なる神」です。それゆえ、罪人なる人間は、聖なる神様の御前で耐えることができるために、自分を守ってくれるものとして、罪ののろいから救い出してくださるお方が必要なのです。このお方はまさしく洗礼において人間の守りとなってくださいます。

もしも洗礼が罪の赦しをもたらすのなら、洗礼では他のことも起きているにちがいありません。「罪の赦しを受けながらも、神様の子供ではないままの状態」というのは、ありえないことです。「洗礼において神様は御自分の子供としてくださる」と結論できます。「神様の子供でありながら聖霊様をいただいていない」というのもありえないことです。聖書は「神様のものである者たちには皆、神様の御霊が住んでいる」とはっきり教えています(例えば、ローマの信徒への手紙8章9節)。すなわち、洗礼では「神様の御霊が洗礼を受けた者の中に住みに来られる」ということが起きています。スヴェビリウスの教理問答書(ルターの小教理問答書の解説)は洗礼についての聖書の教えを次のように上手にまとめています、「父なる神様は、洗礼を受ける者を子供として受け入れてくださり、御子は、洗礼を受ける者に御自分の義を着せてくださり、聖霊様は、洗礼を受ける者を新しく生まれさせ、御自分の住まいになさる」。

罪への堕落の後にも、人は神様の創造された存在であることには変わりません。しかし、人は神様から離れてこの世に生まれてきます。洗礼において神様は人を、悪魔のものであるグループから御自分のものであるグループへと移動なさいます。それゆえ、ルターの洗礼式文では、洗礼を受ける者に対して「あなたは悪魔を捨てますか」尋ねることになっています。このように今でも尋ねるべきところです。それは、洗礼において何が起こっているかを思い起こさせるのにふさわしい質問です。

洗礼において人は、神様のものとして活き、天国に入るために必要なすべてのものを得ます。あなたも、洗礼を受けたときにそのすべてをいただいているのです。そして、それを受けるための報酬をあなたが用意する必要はありません。このことを驚きをもって考えて御覧なさい。このことを知ることを学びなさい。そしてこれについて神様に感謝しなさい。

どのようにしてこのようなことが起きるのでしょうか?子供は洗礼を受けるときに、洗礼について何もわからないでしょう?
洗礼は神様のみわざです。洗礼において神様はいてくださり、その場に来てくださり、みわざをなさり、恵みを分けてくださいます。「私たちが何をするか、どのくらいたくさんわかっているか」はそれほど大切ではありません。「神様が何をしてくださっているか」、すなわち、「神様は御自分のものとしてくださり、救ってくださる」ことが大切です。まさにこの点で、ルター派といわゆる自由派の洗礼理解は決定的に違っています。私たちルター派は、聖書もそう教えているように、「洗礼はまず第一に神様のみわざである」と教えています。自由派では「洗礼は人間の行いや決断や告白であり、人間が事の本質を理解し懸命に努力することを前提としている」ことが強調されます。

「もしも洗礼が、すなわち、水のそそぎかけとわずかな御言葉を言うことが、救うのだとしたら、それはほとんど魔法ではないか」と考える人もいるかもしれません。私たちにとってそれが魔法のようにか、または他の何かのように感じられるとしても、神様はこのようにして救う方法を選ばれたのです。なぜでしょうか?
それについて私たちは十分満足のいく答えを与えることは多分できないでしょう。おそらく、私たちの救いについて何か目に見えるしるしが与えられるためではないでしょうか?私たちがそれにしっかりとつかまって、「私も救われている」ことを信じることができるようになるためです。

小さい子供は信じているのでしょうか?「イエス様への信仰」とは、まずなによりも「聖霊様が人の中にお住まいになり、神様の善性と恵みへの信頼を生み出し、それを保ってくださる」ということです。子供は洗礼において聖霊様をいただきます。それゆえ、私たちは「子供は信じている」と言うのです。時が来れば、聖霊様は子供の中に子供が言葉で言い表せるような信仰を生み出してくださいます。しかしながら、このことについても最も深い問題は「信仰の本質とは一体なんであるか」、すなわち「聖霊様が人の中に住まわれている」ということなのです。

教会の教師たちは「洗礼は救いのために不可欠である」と言ってきました。洗礼を受けていない者は教会では神様のものとはみなされず、それゆえ、神様の子供たちの食事である聖餐式にも参加が許されてはきませんでした。古い教会では、洗礼盤は教会の外へ通じる扉のあたりに置かれていました。それは「洗礼は救われている者たちのグループに入る門であり、他の門は存在しない」ことを教会に来た人たちに思い起こさせるためでした。

ということは、洗礼なしには救われる可能性はまったくないのでしょうか?あるとき若い母親が子供を出産しましたが、赤ちゃんはとても弱って生まれました。助産婦は「子供に洗礼を授けましょうか」と訊きました。それに対して母親は深く考えないで「いいえ」と答えました。彼女は自宅で洗礼式を行いたいと希望していたのです。生まれてまもなく子供は死にました。幾日かたってその助産婦は病院で母親に会い、こう言いました、「あなたはずいぶん残酷な母親だね。自分の子供に洗礼を授けさせないで、滅びの地獄に送り込むなんて」。母親はすっかり取り乱して、「助産婦が言ったことは本当か」と牧師たちや他の人たちにも尋ねました。あなたの周囲にもこれと似たようなことが起きて、同じような質問を人から受けたり、自分で考えざるをえなくなった経験があるかもしれません。

かつて教父アウグスティヌスは次のように言いました、「洗礼が欠けていることは必ずしも人を滅ぼさないが、洗礼を侮ることは人を滅ぼす」。アウグスティヌスが意味しているのは、「私たち人間は神様の設定なさった恵みの手段(神様の御言葉、洗礼と聖餐のサクラメント)に縛られている。これら恵みの手段は私たちにとって、神様の恵みにあずかるようになったり、神様の恵みを他の人たちに提供するための唯一の手段である。しかし、神様はあらゆることの上方におられ、何に対しても縛られてはおられない。神様は例外的なことを行って、私たちには知られていない方法で、恵みの手段なしに人を救うことがおできになる」ということです。そういうわけで、私たちは「洗礼が間に合わなかった子供が確実に地獄で滅びる」とは言いません。これは「私たちは子供に洗礼を授けないまま放っておいてもよい」という意味ではありません。それこそ「洗礼を侮る」ことになります。私たちは可能な場合には洗礼を授けます。何らかの理由で可能性がなかった場合には、洗礼を受けなかった子供をよい神様の御手にゆだね、こう言います、「どうなさるか神様がお決めなさる。神様は決して間違ったことはなさらない」。このことは同じく、この世で生きている間に福音を聞かなかったクリスチャンではない人々にも当てはまります。私たちの使命は、彼らに福音をもっていくことです。しかし、私たちは「福音を聞かなかった何百万人もの人たちが確実に地獄で滅ぶ」とは言いません。私たちは裁きを神様にお任せします。これは、私たちをひどい苦しみをもたらすような疑問から解放してくれます。そして、私たちには神様の御言葉に基づきそうする権利があるのです。

「洗礼において救われる」というのは本当です。「洗礼においていただく救いを失うことがありうる」というのも同じように本当です。もしもイエス様を捨てて不信仰の中に生きるならば、救いを失います。そのような場合、洗礼を受けている者は、神様が救い出してくださる前に自分がいたところに戻ってしまいますが、ふつうは少しずつそうなっていきます。そしてそうなる理由は、洗礼を受けている子供が、神様が人を御自分のグループにとどめておくために用いられる「神様の御言葉」を聞かないことにあります。また、ある種の罪が洗礼を受けている者を神様から引き離そうとしていることもしばしばあります。「洗礼を受けている者は皆信じており、天国への旅の途上にある」と主張するのは、事実ではなく、人を騙すことであり、聖書のはっきりとした御言葉を無視することです。にもかかわらず、そうした主張が今もよく聞かれます。もしもあなたが洗礼を受けている子供たちに神様の御言葉を蒔くならば、あなたは大切な仕事をしているのです。

神様のみもとからさまよいだして、滅びへの道を歩んでいるとしても、洗礼を受けた者は、あいかわらず神様にとって愛する子供なのです。この迷子がみもとに戻り、失ってしまったものを再び神様からいただくようになるように、神様は心から呼びかけておられます。「信じるようになる」とか「悔い改める」とか、いろいろな言葉が用いられますが、それは結局のところ「洗礼においていただいたものへと立ち戻る」ことです。戻る者は再び天のお父様の子供になるために何か特別なことを行う必要はありません。お父様の側ではすでに仲直りの準備ができています。人はただ神様のみもとに戻って仲直りを受け入れるだけでよいのです。「放蕩息子」のたとえ話(ルカによる福音書15章)を思い起こしましょう。また、「信じるようになる」ことは洗礼を補完するものではないことを覚えましょう。洗礼において私たちは、救われるために必要なものをすべていただいたのです。「いつ信じるようになったか」などという質問には答えられなくてもかまいません。大切なのは、「今信じている」ということです。赤ちゃんのときに洗礼を受けた者が、洗礼式から墓に入るまで生涯にわたって、神様のものとしてとどまりつづけることがありえます。そうなれば理想的です。「このような人は実は信じていない」などと主張するのはまったく誤りです。「再洗礼」(幼児洗礼を否定して再び洗礼を受けること)は決して必要がありません。たとえ私たちがイエス様から離れ去った場合でも、イエス様を再び十字架につける必要はありません。イエス様の十字架のみわざと同様に、私たちを十字架につけられた私たちの主に結び付ける「洗礼」は、神様の一回限りのみわざなのです。

「子供にも洗礼を授けるべきか」と訊かれるとき、「子供も自分自身の外側からの力によって救われる必要があるか」という問題に戻って考えなければなりません。理性や人間の感情は「必要ない」と答えます、「子供は何も悪いことをしなかったでしょう。それにこの子は本当に可愛らしいし」。子供に洗礼を授けないままにしておく者は、自分の理性や感情の言いなりになっています。しかし、神様の御言葉はちがうことを告げています。「すべての人は罪を犯したため、神様の栄光をいただけなくなっています」(ローマの信徒への手紙3章23節)。「すべての人」という言葉には子供も含まれています。子供もまた罪を犯すようになりますし、子供の中には原罪があります。この原罪(生まれながらの罪)こそは「本当に罪であり、洗礼と聖霊によって生まれ変わらないすべての者を裁き、今すでに彼らに神様の永遠の死をもたらしている」(アウグスブルク信仰告白 第2条 原罪について)ものなのです。洗礼において子供に救いがもたらされます。子供はその救いを必要としており、イエス様はそれをその子供のためにも備えてくださっているのです。

パウロは洗礼を葦の海を渡ることに比しています(コリントの信徒への第1の手紙10章1節)。エジプトから逃げ出したイスラエルの民をファラオの軍勢が追いかけてきました。イスラエルの民の行く手に広がっていた海を二つに切り分けることによって、神様は御自分の民に救いを備えてくださいました。選ばれた民には、ほんの赤ちゃんからお年寄りまでいろいろな年齢の人たちがいました。当然のことながら、子供たちはファラオの手中に落ちるように海岸に置き去りにはされたりはしませんでした。子供たちは他の人たちと共に二つに分けられた海を越えて運ばれていきました。もしも誰かが「子供たちは今何が起きているかわからないのだから、浜辺に置き去りにするべきだ」と要求したのなら、その人は愚か者とみなされたことでしょう。これと同じようにおかしいのは、「子供たちには十分な理解力がない」という理由から、子供たちに洗礼を授けないままに放っておくことです。こうすることで、子供たちを、裁きを受けるのが当然である人間界を救うために神様が行ってくださったみわざとは関係のない状態に置き去りにすることになってしまいます。

子供(赤ちゃん)のときに受けた洗礼は、大人にとっても大きな意味を持っています。神様の子供たちの中に自分の場所をいただくために、私は何も行う必要がありません。洗礼はこのことを私たちに思い起こさせ、今もなおそのとおりであることを保障しています。私は神様の子供であることが許されています。私の中から神様の子供となるにふさわしい理由が見出だされる必要などはありません。私は救われるために何もできなかったにもかかわらず、神様は私を恵みにより救ってくださいました。つまり、私の救いは神様のみわざなのです。神様のみわざにゆだねるとき、私はしっかりした基盤に立っています。神様のみわざはこの世での人生の嵐にもびくともせず、私を天国へと運んでくれます。とりわけ、自分が悪いと思ったり、信仰が実に弱いと感じるときに、洗礼を思い起こす必要があります。私の悪さや弱い信仰は神様のみわざをだめにはしません。ルターと共に「私は洗礼を受けている。私は救われるのだ」と言うことができます。他には何も残っていないときでも、私は自分が受けた洗礼に避けどころを求めてよいのです。そして、他のものは必要ないのです。ここから「自分は救われている」という確信をもつことができます。

洗礼は私たちに尋ねています、「あなたは神様の子供になりました。あなたは神様の子供としてふさわしく生きていますか。洗礼において新しい命が始まりました。このことがあなたの生活の中に見えますか。洗礼を受けた者は、天の父なる神様の御心を聞きながら、それに従わなければなりません。もしもあなたが神様の御心に反して生きているのなら、あなたは洗礼においていただいたものを失ってしまう真に危険な状態にあります。あなたはどんなことについて神様の子供にふさわしくなく生きているか、考えてみなさい。そして、そうした事柄について悔い改めなさい」。

洗礼は「あなたと神様との関係が大丈夫であるかどうか」を洗礼を受けている者ひとりひとりに思い起こさせます。洗礼は神様と離れて生活している人に「神様のみもとに帰りなさい」と呼びかけています、「あなたは神様のものなのです。あなたは今、間違ったグループに入っています。あなたの本来の場所は神様の子供たちの中にあるのですよ。あなたのお父さんがあなたを待っています。お父さんのもとへとつづく道はあなたに向けて開かれています」。人が故郷に帰るのは、人が未知の場所に引っ越す場合よりも、簡単です。洗礼を受けている者は自分の「故郷」とちゃんとしたつながりがあります。その人は天のお父さんのところにいたのですから。

2007年10月12日金曜日

ルター通信

すっかり御無沙汰してしまいました。普段日記もつけない私のような人間にとって、ブログはどう使えばよいかわからない、という思いが強かったのですが、ひとつアイディアがでました。私は、聖書の教えとクリスチャンの日常の信仰生活にかかわりのあるテキストをフィンランド語から日本語に翻訳しています。それを時々ですがこのブログに載せていこうかと考えました。

私は短いルターのテキストを日本語に訳して希望者に電子メールで配信してきました。メールを読む方々の希望もあり、メール通信はできるだけ簡略なものにしています。
それを補完する意味で、このブログでは、もっとまとまった、ある特定なテーマについてのテキストを掲載することにしてみます。
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