2010年8月9日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 6章10~20節 

6章10~20節 真の戦い

先の箇所で「家訓」は終わります。
クリスチャンが受けた指示は、結びの勧めにまとめられています。
第1章によれば「諸力」はすでに打ち砕かれていますが、この箇所はふたたびこれらの「諸力」について語っていることは興味を引きます。
実は、ようやくこの段階になって、クリスチャンはそれらの諸力と戦うことができるようになったのです。
    
人はキリストと離れている限り、神様とも関係がない状態にあり、死の支配下にいます。
そのような人の内にあるのは、「墓場の中の平安」です。
ところが、神様が人を命へとよみがえらせたときに、戦いが始まります。
死者は横たわったままですが、生者は戦い、祈ります。
    
感動的なのは、牢獄にありながらも、心に苦い怒りを抱かず、ただ無我夢中に、言葉にはできないほど大きな神様の愛と奥義を描き出した男パウロが、へりくだり、適切な言葉によって主について自分が正しく証できるようにと、皆にとりなしの祈りを頼んでいることです。
       
「神様の武具」の各部分が、旧約聖書からの引用の数々からなっているのは、感動をさそいます。それらは、ひとつの例外を除き、神様が人間に与えてくださった武具であるにとどまらず、旧約聖書で神様御自身が身につけられた武具でもあります。
この武具を、今クリスチャンは装着するのです。
「御霊の剣」なる神様の御言葉について語っている「ヘブライの信徒への手紙」4章12節のほかにも、少なくとも次の旧約聖書の箇所は特に注目するべきものです。
 
「正義はその腰の帯となり、真理はその身の帯となる。」(イザヤ書11章5節)
   
「主は義を胸当てとしてまとい、救いのかぶとをその頭にかぶり、報復の衣をまとって着物とし、熱情を外套として身を包まれました。」(イザヤ書59章17節)
  
「福音を伝える者の足、平和を告げる者の足、よき福音を伝える者の足、救いを告げる者の足、シオンに向かって「あなたの神様は王となられた」と言う者の足は、山々の上にあって、なんと麗しいことでしょう。」(イザヤ書52章7節)
   
「私の盾は神様です。神様は心のまっすぐな者を救われます。」(詩篇7篇11節)
   
「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、誕生して間もない教会のクリスチャンたちにとっても旧約聖書が信仰の基本書であったことを、私たちに教えてくれます。
旧約聖書を軽んじるのは、クリスチャンにふさわしい態度ではありません。
ともすると聖書の3分の2が読まれずに放置されているという現状を、私たちは恥じるべきでしょう。
とりわけ、私たちに提供されている武具は、神様の御言葉の光の下で、自分自身の生き方全体を見つめなおすように、何度も繰り返し促してくれます。
私たちの生活の中に、聖書とは相容れないことが何かあるでしょうか。
「神様が私を憐れんで、御自分の子供としてくださった」ということに基づいて、よりよい生き方を送ることができるように、私たちは、どのような結論を下すことができるでしょうか。