2008年11月28日金曜日

マルコによる福音書 第4回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

天の御国は人が取って自分の畑に蒔く一粒のからし種のようなものです。
(マタイによる福音書13章31節)

人が自分の畑に蒔くいろいろな種が一粒ずつ私たちの目の前にあると、想像してみましょう。それらの種を大きさの順に並べます。じゃがいもの大きさの種、親指の先の大きさの種、小指の先の大きさの種、ボタンの大きさの種。そして、列の最後にあるのがからし種です。そして、多くの人の目には、まさにそのようなものが天の御国なのです。

この御国の王様をごらんなさい!この王様の誕生をみつめさい。この方は動物小屋でお生まれになりました。この王様の生き方をみなさい!この方が地上で生きておられた間、取税人や罪人がこの方の栄光をあらわしている一隊です。この王様の死をみつめなさい。この方は十字架で「悪をおこなった者」とみなされ死にました。この御国の臣民をみなさい!イエス様はこう言われます。
「お父様、私はあなたを賛美します。あなたはこれらのことを賢く理解力のある者たちから隠して、子供のような心の持ち主に告げてくださいました。お父様、そうです、これはあなたの御前であなたの御心にかなうことでした。」(ルカによる福音書10章21節)
パウロはこう言っています。
「兄弟たち、自分の召された状態を思い出してごらんなさい。人間的にみて賢かったり、権力があったり、身分の高い者はあまりいませんでした。それとは逆に、神様はこの世の愚かな者を選ばれました。それは、賢い者を恥じ入らせるためでした。神様はこの世の弱い者を選ばれました。それは、強い者を恥じ入らせるためでした。神様はこの世で身分の低い者や軽んじられている者、つまり無に等しい者を選ばれました。それは、有力な者を無力にするためでした。」(コリントの信徒への第1の手紙1章26~28節)
このような者が「天の御国の臣民」なのです。

この天国の活動に目を留めなさい!あそこでは幼子が洗礼を受けています。この子は神様の御国の臣民として受け入れられるのです。数滴の水の雫が目に見える手段です。あそこでは聖餐式がおこなわれています。キリストのからだなるパンと、キリストの血なるぶどう酒が配られています。聖餐は御国の臣民を敵との戦いのために強めます。多くの人はこれら取るに足りなく見える手段(洗礼での水と聖餐でのパンとぶどう酒)を軽んじてつまずきます。

なによりもまず、この王国は御言葉をとおしてはたらきます。御言葉を宣べ伝えることが御国のもつ武器です。その武器とは、罪についての証と、キリストにおける神様の恵みについての証、悔い改めの説教、罪の赦しの宣教です。「神様はキリストにおいて世を御自分と和解させ、彼らの罪過を彼らに負わせることをしないで、私たちに和解の福音をゆだねてくださいました。」(コリントの信徒への第2の手紙5章19節)
キリストはすべての人を御自分の血によってあがなってくださいました。そして、このことについてふさわしい時に宣べ伝えるようにと、命じられました。神様の御国が活動するところでは、十字架につけられたキリストについて説教されています。キリストが帰ってこられるまで、キリストの死が宣教されつづけるのです。

K.V.タンミネン (「よい守りの中で」)

2008年11月24日月曜日

マルコによる福音書について 第4回目の質問

第4回目の集まりのために

マルコによる福音書4章1~34節

イエス様は神様の御国についてたとえを話されます。

1)イエス様がたとえを用いることで、神様の御国を聴衆の大部分に対して隠しておられるのは、不意を衝かれる思いがします(4章11~12節)。イエス様にはこうなさるどのような権利をおもちなのでしょうか?イエス様は今でも同じようになさることがありうるでしょうか?この問題について、私たちは何を考えるべきでしょうか?

2)現代では、どのような人たちが、どのような状況で、御言葉を聞いてもすぐに忘れてしまうものでしょうか?

3)現代では、どのような人たちが、御言葉を聞いてそれを受け入れても、すぐにそのあとそれを捨ててしまいますか?

4)現代では、どのような人たちが、この世的な欲望のせいで神様の御言葉を忘れてしまうものでしょうか?イエス様は富について厳しく警告しておられます。それは私たちにとってどういう意味があるでしょうか?

5)種蒔きの人のたとえは、神様の御言葉に対してどのような意味を与えていますか?聖書は、私たちの所属しているそれぞれの教会において、それにふさわしい位置づけがなされているでしょうか?

6)「ともし火を入れ皿の下に隠し置いてはいけない」とイエス様は言われています。私たちは神様の御言葉を周りの人たちに公に伝えることを恥ずかしく思っていますか?しかし、そうすることで、神様が私たちを罰して私たちから御言葉を取り去られるとしたら、どうですか?

7)神様の御言葉には4章26~29節のたとえも関係しています。このたとえのメッセージは何でしょうか?

8)神様の御国を待ち望んでいたクリスチャンたちの他にも、まったく新しい世界を待望していた人たちがいました。現代において、より公正で平等な新しい世界を望んでいる人々と、私たちクリスチャンの間には、どのような共通点と相違点があるでしょうか?

9)4章30~32節を読んでください。どの国が今現在における大国であり、誰がこの世の運命を握っているように見えますか?神様の御国は「からし種の木」のように私たちの目には「小さく取るに足りないもの」に見えるのでしょうか?この聖書の箇所に基づいて、私たちの信仰について、何か具体的な結論を導くことができますか?

2008年11月21日金曜日

マルコによる福音書について 4章24~34節

成長させてくださる神様 4章24~29節

イエス様は神様の御国や御言葉について語られます。イエス様はたとえを説明はなさいません。しかし、たとえ自体は容易に理解されるはずです。農夫が種を蒔きました。その後は長い間何もすることがありません。種は芽を出し、まったく自然に茎を伸ばし、それから穂をつけ、さらに穂の中に実をならせます。ようやく収穫のときになって、農夫は畑に向かいます。このたとえでは農夫は神様であり、畑は世であり、種は神様の御言葉です。つまり、神様はこの世では御言葉を通して働きかけられているのです。神様が望まれることを実現するのは、御言葉です。信仰が人々の間に広がっていくのは、人間の業績ではなく、神様の奇跡です。時が来て、神様は御言葉を人々に与えてくださいます。また、「神様の時」が来ると、神様は刈入れをするために使者を派遣されます。ここで「刈入れ」は最後の裁きを意味していると思われます。


小さな種から大きな木へ 4章30~34節

私たちに馴染み深いからし種の木はとても小さく取るに足りないものに見えます。それは蒔かれるとぐんぐん成長して、終いには大きな木になります。麦の実よりもずっと小さい種も驚くほど大きく成長するわけです。これと同じように、神様の御国もこの世では非常に小さく取るに足らないような存在に見えます。しかし、それはどんどん成長して強くなり、ついには全国民に避けどころを提供するほどまでになります。大きな木の陰に巣を作る空の鳥たちのたとえは、ダニエル書への引用です(4章16~19節)。その箇所ではネブカドネザルの強大な権力が「いたるところに枝を伸ばしている木」にたとえられています。ダニエルはネブカドネザルに対して、神様がこの「大木」すなわちバビロン帝国を倒すことを予言しているのです。これとは反対に、小さくて取るに足りないように見える神様の御国は大きく強く成長していくわけです。

2008年11月17日月曜日

マルコによる福音書について 4章13~23節

たとえの説明 4章13~20節

弟子たちは今やっとたとえの説明を聞くことができます。たとえのキーポイントは、「蒔かれる種は神様の御言葉だ」ということです。この鍵が見つかりさえすれば、後は説明の必要もなくたとえ全体の意味が明らかになります。種は神様の御言葉であり、さまざまな土地はさまざまな人々をあらわしています。種のさまざまな成長の仕方は、神様の御言葉がさまざまな仕方で人の中で影響を与えることを意味しています。

道端に落ちた種は、聞く耳を持たない聴衆に語られた神様の御言葉のようなものです。彼らは御言葉を聞きはするものの、それに気にも留めません。サタンが御言葉をすぐに取り去ってしまうので、それが「芽を出す」暇もありません。聞かれたと思ったらすぐに忘れれてしまいます。神様の福音が彼らの心に触れることもありません。

岩場では種はすぐに芽を出しますが、太陽に照らされて乾ききり、実をならせるにはいたりません。ここで描かれているのは、神様の御言葉を喜んで受け入れるものの、それをあっという間に捨ててしまう人たちのことです。彼らが御言葉を捨てる理由として、イエス様は困難や迫害などの外面的なことがらを挙げておられます。もちろん人間の外側ばかりではなく内側にも御言葉を捨て去る原因が見出せます。多くの人はいともたやすく疲れ果て、もう神様の福音を必要とはしなくなるのです。

茨の茂みに蒔かれた種は芽を出し、長く生きます。ただし、この芽にはひとつ一番大切なものが欠けたままです。それは収穫の実です。実を得るためにこそ種は蒔かれたのです。このような土地は、御言葉を受け入れてその生徒ととして留まりはするものの、最終的にはこの世的なものに飲み込まれてしまう人たちを描いています。富や心配やさまざまなこの世的な欲望が人を振り回すため、その人は実がならないままに終わるのです。

よい土地に落ちた神様の御言葉の種はちゃんと本来の目的を果たします。人は神様の御言葉の忠実な生徒として最後まで留まりつづけます。神様が御言葉について説教させるのは、このことが御言葉を聴く人のなかで起こるようにするためです。他のケースでは、御言葉を教えたとしても、聞き手の人にとっては無意味で無駄なことになってしまいます。


福音を公に 4章21~23節

前のたとえは、「どうすれば神様の御言葉を正しく聴くことができるか」についてのイエス様の教えが関係しています。神様の御言葉の光を心にいただいた者は、それを隠していてはいけないのです。ロウソクに火を点した者は、そのロウソクを入れ皿で覆ったりはしません。火のついたロウソクは、部屋全体を明るくするように、できるだけよい場所に置かれるものです。これと同じように、神様の御言葉は世界全体に向けられています。御言葉には恥ずべきことや隠すべきことは何もありません。マルコによる福音書の続きの箇所もまたこのことに関係しています。御言葉は注意深く聴かれるべきものだし、さらに先へと伝えられていくべきものです。先へと伝えていくべき御言葉が多ければ多いほど、神様はそれだけ多くの御言葉についての理解力を、御言葉を伝える人に与えてくださいます。それにひきかえ、御言葉を恥じ覆い隠す人からは、その人がもっていたわずかばかりの御言葉を理解する力も奪われてしまいます。

2008年11月14日金曜日

マルコによる福音書について 4章1~12節

神様の御国

マルコによる福音書4章1~34節

マルコによる福音書の4章には、神様の御国に関するイエス様のたとえ話が多く取り上げられています。イエス様のたとえ話は物語としてもすばらしいものばかりです。時代は移りゆきますが、たとえ話はいつの時代にも働きかける新鮮さを保っています。それらは、たとえばヨーロッパの国々の国民の言葉遣いに、消えることのないはっきりとした痕跡を残しつづけています。


謎めいた話 4章1~9節

「種蒔きの人のたとえ」は、イエス様の「かわった教え方」をよく示しています。イエス様はたとえを話され、それについて説明なさいませんでした。その意味を理解しなかった者はまもなくイエス様の御言葉を忘れてしまったにちがいありません。たとえの意味を理解した者は、生涯にわたって考えてゆくべき教えをいただいたのでした。
イエス様は種蒔きに出かけた男について語っています。イエス様がこの世で生きておられた時代には、人々は種蒔きを可能にする雨を長いこと熱心に待ちつづけることがよくありました。ようやく雨が降ると、種を蒔く人が仕事を始めます。はじめに土を耕すのではなく、まず種が蒔かれ、それからそれを土によって覆います。いくつかの種は道端に落ちました。これらの種は芽を出す暇もなく、鳥にあっという間に食べられてしまいました。いくつかの種は岩の上に落ち、すぐに芽を出しましたが、まもなく枯れてしまいました。いくつかの種は茨の茂みの中に落ちました。そこで種は芽を出し伸び始めましたが、覆いかぶさるようにして茂る茨がその成長を阻み、実をつけるには至らせませんでした。残りの種はよい土地に落ちて、種を蒔いた人の期待通りの収穫をもたらしました。うまくいった場合にはもとの10倍の実を得ることができました。100倍の重さの収穫を得るのは、ほぼ実現不可能な夢にすぎませんでした。もっとも、ひとつの籾には平均的に約35個の実が入っており、非常によい条件の下では100個の実が得られることもありました。


メッセージの意図的な隠蔽 4章10~12節

イエス様はたとえを聴衆全員には説明なさいませんでした。たとえの意味がわかった人もいれば、忘れてしまう人もいました。たとえを理解したのは、イエス様こそ神様がその到来をあらかじめ約束されていたキリストにほかならないことを理解した人たちのみでした。弟子たちはたとえの意味をイエス様にたずねました。イエス様は、「神様の御国を聴衆から隠すためにたとえで語るのです。」とはっきり言われました。これは神様の民の歴史の中で初めてのことではありません。主の御言葉のひとつの目的は、民の大部分をかたくなにし、御言葉が彼らの傍らを素通りすることだからです。神様は預言者イザヤを遣わして御自分のメッセージを民に伝えさせました。すでにイザヤが召命されるときにイザヤが見た幻の中で、神様のメッセージが民に受け入れられないことが告げられています(イザヤ書6章)。このイザヤの言葉をイエス様はここで引用し弟子に語られたのでした。この福音書の箇所では、今まで何度も触れられてきた「メシアの秘密」はおそらくもっとも明瞭で、しかもおそるべき様相を呈しているのではないでしょうか?

2008年11月5日水曜日

マルコによる福音書 第3回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言いました。
「これはひどい言葉だ。誰がこんなことを聞くに堪えうるだろうか。」
(ヨハネによる福音書6章60節)

この御言葉は私たちを慰めるために書かれています。「福音が世にどんどん広まっていくときに、福音を広めるのに最適とも思える人たちの中から福音を捨て去る者たちが意外にもあらわれる。」ということを私たちが知るために、この御言葉は与えられているのです。私がしばしば困惑したのは、御自分の弟子たちの中で説教職を務められるときに、キリストがあまりにも弱々しいため、悪魔が強気に出て、福音伝道の最前線に立っている者たち(ここでは弟子たち)さえも皆そろって福音を捨て去るような事態に立ち至らせる、ということです。「友よ、こんなに変なことが起きるようでは、先生の教えは正しいのだろうか。神様の御手は先生と共にあるのだろうか。」と誰しも考え込まずにはいられないことでしょう。
ここで私たちはすぐに目をつむってこう言わなければなりません。「立ちつづけることができないものは倒れるがよい。それでも真理は真理でありつづけるのだから。こんなことは驚くにはおよばない。主キリスト御自身にも同じことが起きたではないか。キリストも見捨てられたではないか。」
私たちも皆、耐えつづけることができますか。信仰を捨て去る者が増えようが、迫害が来ようが、かまいはしません。この教えを抹消することなど決してできないのですから。これからも福音は、権力や学者や貴族以外のものにその基礎をおいているのですから。

マルティン・ルター (「神様の子供たちに与えるマナ」)