2022年5月27日金曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 自分が考えていることを不適切に口に出さないために、 自分が言うべきことをよく吟味しなさい 「ヤコブの手紙」3章1〜2節(その2)

言葉の使用による罪と祝福

「ヤコブの手紙」3章

 

自分が考えていることを不適切に口に出さないために、

自分が言うべきことをよく吟味しなさい

「ヤコブの手紙」3章1〜2節(その2)

 


「ヤコブの手紙」3章1節からもわかるように、ヤコブも聖書の教師でした。

とはいえ、言葉の使用にかかわる罪への警告は説教者だけではなく

キリスト信仰者全員にも当てはまるものでしたし、今でもそうです。

 

一般的にユダヤ人たちは教師の地位を非常に高く評価しており、

教師たちを自分の父親よりも重んじたほどでした。

肉親は私たちをこの世に生んでくれましたが、

教師たちは私たちを来るべき永遠の世界へと導いてくれるからです。

だからこそ特に教師は自分の話す内容をしっかり吟味するべきなのです。

そしてまた、

キリスト信仰者全員が言葉の使用に関する同じ奨励を受け入れる必要があります。

 

「あなたがたに言うが、審判の日には、

人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。」

(「マタイによる福音書」12章36節、口語訳)

 

言葉の使用に関して一度たりとも神様の御心に反することがなく

隣り人に対しても罪を犯さないというのは誰にもできません。

それができたのはイエス様だけです。

 

「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」

(「ペテロの第一の手紙」2章22節、口語訳)

 

「さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、

彼らはその下役どもに言った、

「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。

下役どもは答えた、

「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。」

(「ヨハネによる福音書」7章45〜46節、口語訳)

 

聖なる神様と出会うとき、

私たちは言葉の使用に関しても自らの罪深さを否応なく思い知らされます。

次に引用する聖句からもわかるように、

これは預言者イザヤにとっても真実でしたし、

もちろん他のすべての人間にとってもそうです。

 

「その時わたしは言った、

「わざわいなるかな、

わたしは滅びるばかりだ。

わたしは汚れたくちびるの者で、

汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、

わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。」

(「イザヤ書」6章5節、口語訳)

 

パウロは言葉の使用に関する人間の罪深さについて次のように書いています。

 

「彼らののどは、開いた墓であり、

彼らは、その舌で人を欺き、

彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。」

(「ローマの信徒への手紙」3章13〜14節、口語訳)

2022年5月11日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 自分が考えていることを不適切に口に出さないために、 自分が言うべきことをよく吟味しなさい「ヤコブの手紙」3章1〜2節(その1)

 言葉の使用による罪と祝福

「ヤコブの手紙」3章

 

自分が考えていることを不適切に口に出さないために、

自分が言うべきことをよく吟味しなさい

「ヤコブの手紙」3章1〜2節(その1)

 

「ヤコブの手紙」の1〜2章の大部分の内容は「奨励」でした。

それに対して

3章から手紙の終わりまでの内容では「警告」に重点が置かれています。

ヤコブは罪のない生活を送ることが人間に可能であるなどとは

夢にも思っていません。

このことを念のためにもう一度指摘しておきたいと思います。

というのは

「ヤコブは人間が罪のない生活を送ることが可能であると考えていた」

という誤解に基づく主張が今でも時おり見受けられるからです。

 

「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。

もし、言葉の上であやまちのない人があれば、

そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」

(「ヤコブの手紙」3章2節、口語訳)

 

このようにヤコブは彼自身も含めたすべての人間が

多くの罪に陥ってしまうものであることを認めています。

 

「わたしの兄弟たちよ。

あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。

わたしたち教師が、他の人たちよりも、

もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」

(「ヤコブの手紙」3章1節、口語訳)

 

ここでヤコブが呼びかけている「あなたがた」が

聖書の教師(すなわち説教者)という教会の職務のために選ばれた人々なのか、

それともより一般的に教会を指導する立場にある人々なのか

はっきりしません。

前者のケースすなわち教会の説教職について新約聖書は次のように述べています。

 

「さて、アンテオケにある教会には、

バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、

クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、

およびサウロなどの預言者や教師がいた。」

(「使徒言行録」13章1節、口語訳)

 

「そして、神は教会の中で、人々を立てて、

第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、

次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、

また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」12章28節、口語訳)

 

「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。」

(「ガラテアの信徒への手紙」6章6節、口語訳)

 

「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、

二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。」

(「テモテへの第一の手紙」5章17節、口語訳)

 

上述の「ヤコブの手紙」3章1節にある、

教会の指導者が受けることになる裁き

(これは「責任」と言い換えてもよいかもしれません)

が他の人々が受ける裁きよりも厳しいものになるという考えかたは

聖書の他の箇所にも見られます。

例えば旧約聖書の預言者エゼキエルは

人々の信仰生活に心配りをする立場にある者たち

(教会で言えば牧者にあたる人々)の責任の重大さについて語っています

(「エゼキエル書」3章17〜21節、33章7〜9節)。

それと同じようにパウロも自分自身について次のように述べています。

 

「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。

そうしないと、

ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章27節、口語訳)

 

当然ながらイエス様の次の言葉も忘れるべきではありません。

 

「しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。

多く与えられた者からは多く求められ、

多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」

(「ルカによる福音書」9章27節、口語訳)

2022年5月4日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 信仰は見えないままでは終わらない 「ヤコブの手紙」2章14〜26節 (その2)

信仰は見えないままでは終わらない

「ヤコブの手紙」2章14〜26節 (その2)

 

あるフィンランド人の神学者によれば、

「ヤコブの手紙」において対置されているのは信仰と行いではなく、

活ける信仰と死んだ信仰です。


活ける信仰は

それをもつ人間の行いのうちにあらわれないままになることはありえない

ヤコブが主張したとするならば、

たしかにパウロはそのヤコブの考え方を全面的に支持したことでしょう。


検討すべき課題はまだ残っています。

以下に引用する「ヤコブの手紙」2章21〜24節です。

 

「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、

行いによって義とされたのではなかったか。

あなたが知っているとおり、

彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、

こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」

という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。

これでわかるように、人が義とされるのは、

行いによるのであって、信仰だけによるのではない。」

(「ヤコブの手紙」2章21〜24節、口語訳)

 

この箇所でヤコブはアブラハムの行いについて

パウロとは異なる解釈を提示しています。

あたかもヤコブはルター派の信仰理解の根幹に関わる信条

「人は信仰のみを通して救われる」を否定しているかのように見えます。

 

イサクの燔祭についてのヤコブの解釈は

ユダヤ人の聖書学者たちの解釈とよく似ています。

この解釈ではアブラハムの行いが強調されます。

それに対して

パウロは「ローマの信徒への手紙」4章でアブラハムの信仰を強調しています。

まさにこの信仰こそが

アブラハムに神様の指示通りの行動をとるように促したからです。

 

こうして見てくると、

ヤコブとパウロの神学は決して調和できないほどに

互いに食い違っているのではないか、

という疑念が生じるのではないでしょうか。


この問題を解く鍵となるのは次に引用する2章19節です。

 

「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。

それは結構である。

悪霊どもでさえ、信じておののいている。」

(「ヤコブの手紙」2章19節、口語訳)

 

この節でヤコブは、

哲学的な意味で「真である」と認めること(これが死んだ信仰です)

によっては人は救われることがない、と主張しています。

人を救うことのできる信仰は活ける信仰だけです。

それでは、

どのようにして私たちは活ける信仰を判別できるのでしょうか。


それは信仰にひき続いてあらわれてくる行いによってなのです。

行いの伴わない信仰は救いません。

それは偽りの信仰だからです。

人を救う信仰は行いも内包しているものです。

とはいえ、

行いは人が救われる根拠なのではありません。

信仰こそが人が救われる根拠なのであり、

よい行いはそのような信仰の結果として生じてくるものです。

 

もっとも

信仰と行いを区別することは必ずしも容易ではありません。

例えば「マルコによる福音書」3章1〜6節には

イエス様が手の萎えた人を癒された出来事が記されています。

そこには

信仰がたんなる論理的な判断ではなく

真に活動的な生きかたであることが示されています。

そのような生きかたはずっと狭苦しい型に押し込められたままでは終わりません。

 

「キリスト・イエスにあっては、

割礼があってもなくても、問題ではない。

尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」

(「ガラテアの信徒への手紙」5章6節、口語訳)

 

パウロは生前の頃も自分の神学に対して様々な誤解を受けていましたし、

それを意図的に歪曲する者さえいました。

例えば「コリントの信徒への第一の手紙」6章9節や

上述の「ガラテアの信徒への手紙」5章6節などはそれに関連する箇所です。

ともあれ、

そのようなパウロの神学に対する誤解や曲解を修正しようとしたヤコブは

あえてパウロとは逆の極論を主張するような書きかたをしています。

その結果、

ヤコブの神学はパウロの神学と同様に誤解を生みやすいものになりました。

激しい論戦が繰り広げられているところでは

ともするとこのようなことが起きやすいものです。

 

キリスト教会の歴史を振り返ってみると、

ルター派の倫理は主としてパウロの神学に基づいて形成されてきたのに対して

(カルヴァンなどの)改革派の倫理はヤコブの神学のほうをより重視してきた

とも言えるかもしれません。

例えば社会科学の古典であるマックス・ウェーバーの

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は

改革派の職業倫理が西欧の資本主義の発展と密接な関わりがあった

と主張しています。