2019年9月20日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様によって包み込まれた者として 「詩篇」32篇3〜5節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様によって包み込まれた者として 「詩篇」32篇3〜5節(その1)

どのようにして罪が人に重くのしかかり苦しみを与えるものであるか、
この「詩篇」の詩人は聴き手の心を揺さぶるようにして語っていきます。
それにもかかわらず、
人は神様の御前に出てひれ伏そうとはせず、
神様との出会いを避けようとします。
そうこうするうちに神様の御前に出るのがだんだん難しくなり、
しまいには不可能になってしまうのです。

それからどうなるでしょうか。

人は神様から逃げ回っている間は心に平和がなく、
絶えず心が動揺し嘆き悲しみにつきまとわれます。
神様の御手がその人の上に重くのしかかり、
逃げ場はどこにもありません。

最終的に、この逃避行は
「自らの罪の告白」と「神様による無条件で完全な罪の赦し」に行き着きます。
ちょうどこのように悔い改めた人間について、
詩篇朗唱者は「さいわいである」と宣言しているのです。

「神様のもの」である人は皆だれでも、
これが何について語っているのかわかるはずです。

キリストの御許をはじめて訪れる人にも、
また間違った道からキリストの御許に戻る人にも
この詩篇の内容は密接に関係しています。

神様の御許であるゴルゴタの十字架の下に
喜んで自発的に赴く人間は誰もいません。

むしろ人は自らの意に反して十字架へと追い込まれていくのです。
そして、そのようにさせるのは他ならぬ神様です。

いったいどのようにしてそうなるのでしょうか。

キリストの十字架の御許に行くように要求する神様の御言葉が
その人の心に触れることによってです。
とはいえ、
御言葉はいつでもたくさんの人々の心を揺り動かすとは限りません。
しかし一方では、
長い不信仰な放浪の果てに神様に無条件降伏し、
自らの行いの正当化を放棄する人たちも出てきます。

この後者のように、
人は自らの罪の告白をするために神様の御前でひれ伏すべきなのです。

2019年9月13日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その2)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その2)

「義」や「救い」をめぐるテーマについて
教会などで神学的な議論がなされることはよく見受けられますが、
それらの言葉にどのような意味を持たせているかは人によって様々です。

キリスト教徒同士での対話においては、
信仰とキリスト信仰者にふさわしい生活への努力との相互関係が
特に難しい議題となります。
この文脈で「義」という言葉が異なる意味で理解されている例を
次にあげてみましょう。

1)「義」を得るためには、
人間は最善を尽くして神様の御意思に従わなければならない。
信仰者は心の底から悔い改めなければならない。
それによって自分の心から罪を根こそぎ取り去って、
人間の心の中に罪の隠れ場所が全くなくなるようにしなければならない。

2)「義」を得るためには、
神様が人間の心の中にキリストへの信仰と恵みとを
流し込んでくださらなければならない。
この恵みに頼りながら、
人は自分を罪から解放するために戦わなければならない。

3)「義」はキリストの御業に基づく賜物として得られるものである。
キリスト信仰者にふさわしい生活を送る努力について言えば、
キリストを救い主として信じている者にとっては、
そのことを意識して考え始める前にすでにそれは始まっている。

実は、この三番目の選択肢こそがルター派による「義」の理解です。
しかし、このテーマには後ほど立ち戻ることにして、
「詩篇」32篇のはじめの2節に関するルターの的確な説明を次に引用します。

「この箇所はあたかも次のように言っているかのようです。
罪過のまったくない者は一人もいません。
神様の御前では誰もが義に欠けた状態にあります。
このことは、
行いの道を通して義を探し求め、
罪過から解放されるために努力する人々にもあてはまります。
なぜなら、
人間は自分の力では罪過から離れることができないからです。
それゆえ、
罪のない人や自分自身を罪過から解放する人が
さいわいなのではありません。
神様が恵みにおいて罪から解放してくださった人たちだけが
さいわいなのです。」

2019年9月9日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その1)

「詩篇」32篇は驚きにみちた喜びの声ではじまります。
これは全詩篇に対する最上の導入部であるとさえ言えるでしょう。

「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。」
(1節、口語訳)

「さいわい」(ヘブライ語で「アシュレー」)という言葉には、
たんに幸福な状態や、周囲からの祝福や羨望の対象になることよりも
はるかに深い意味があります。
「さいわいである」という宣言は聖書に特有な表現です。
ですから、その意味について拙速な判断を下さないようにしましょう。

例えば、イエス様の山上の説教(「マタイによる福音書」5〜7章)は
これと同じ表現で始まっています。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、
あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、
あなたがたは、さいわいである。

喜び、よろこべ、
天においてあなたがたの受ける報いは大きい。
あなたがたより前の預言者たちも、
同じように迫害されたのである。」
(「マタイによる福音書」5章3〜12節、口語訳)

「詩篇」32篇の詩人は、
罪の赦しを受けた人間のことを「さいわいである」と宣言しています。
この宣言についてパウロは
「ローマの信徒への手紙」4章において取り上げています。
それによれば、旧約時代の「神様のもの」であった人々、
たとえばアブラハムやダヴィデは神様の御前で義と認められました。
しかしそれは、彼らがモーセの律法や神様のその他の戒めに厳格に従って
生活したからではありません。
彼らを守ったのは「罪の赦し」だったのです。
それゆえ、
旧約時代の「神様のもの」であった人々と
同じ信仰をもちたいと願う人は誰であれ、ユダヤ人も含めて、
イエス様の血における罪の赦しの守りの中に入らなければなりません。
旧約も新約もまったく同一の真理を証している書物だからです。
まさにここにルター派の信仰の心の声を聴き取ることができます。

2019年9月4日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「詩篇」32篇


「詩篇」32篇

32:1 ダビデのマスキールの歌
そのとががゆるされ、
その罪がおおい消される者はさいわいである。

32:2 主によって不義を負わされず、
その霊に偽りのない人はさいわいである。

32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、
ひねもす苦しみうめいたので、
わたしの骨はふるび衰えた。

32:4 あなたのみ手が昼も夜も、
わたしの上に重かったからである。
わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、
かれ果てた。〔セラ

32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、
自分の不義を隠さなかった。
わたしは言った、
「わたしのとがを主に告白しよう」と。
その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。
大水の押し寄せる悩みの時にも
その身に及ぶことはない。

32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、
わたしを守って悩みを免れさせ、
救をもってわたしを囲まれる。〔セラ

32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、
わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。

32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。
また騾馬のようであってはならない。
彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、
あなたに従わないであろう。

32:10 悪しき者は悲しみが多い。
しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。

32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、
すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。

(口語訳)

この「詩篇」は「七つのざんげの詩篇」のひとつに数えられています。
しかし「ざんげの詩篇」の本来のスタイルを踏襲してはいません。

マルティン・ルターは適切な解説を残しています。

「これは「教えの詩篇」であり、
罪とは何か、
人が罪から解放されるためにはどうするべきか、
神様の御前で人が義とされるためにはどうすべきなのか」
ということを教えているのです。」(ルター)

このように「詩篇」は
新約聖書の「義認の教え」にとってもきわめて重要な書なのです。