2014年8月27日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 5章6〜11節 神様の愛は、本来ならその愛に値しない者に対して向けられます(その3)


神様の愛は、本来ならその愛に値しない者に対して向けられます 
5611節(その3)


御子イエス•キリストのゆえに
私たちの罪をすべて帳消しにした神様の愛は、
私たちに向けて、今やいっそう大きく燃えあがっています。

神様は、
キリストの十字架上の死という「贖いの御業」の以前にも、
私たちを深く愛しておられました。
その愛は、
御子を受苦の道へと向かわせるほど偉大なものでした。
そして、この贖いは、
キリスト信仰者において実を結びました。
神様の愛の働きによって、
私たちキリスト信仰者が、
神様を誇りとし、
神様の善き御業を誉め称え、
皆に伝道していくようになったからです。


私たち自身の善い行いや信仰について、
パウロはここでは一言も述べていません。
それにはもっともな理由があります。
人間の善い行いと信仰は、今回取りあげた事柄とは何の関係もないのです。

これらについては、かなり後になってから、1215章で出てきます。
その箇所でパウロは、
「神様のもの」として贖われ買い取られた者は、
もはや好き勝手な生き方をしてはならない、
ということをきちんと教えています。

2014年8月22日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 5章6〜11節 神様の愛は、本来ならその愛に値しない者に対して向けられます(その2)


神様の愛は、本来ならその愛に値しない者に対して向けられます 
5611節(その2)


私たち人間は、どこか心の片隅で、
神様はその愛を受けるに値する者だけを愛してくださるはずだ、
と考えるものです。

最低条件として、まず自分の生活を整理整頓しなければならない、
その上でなら、徐々に神様を信じるようにもなれるかもしれない、
といったように。

まず人間の側から真心を持って
神様を「命の主」として受け入れなければならない、
そうすれば、神様のほうでも私たちを愛してくださるようになる、
などと言う人も多くいます。

ところが、ここでパウロは正反対のことを述べています。
真の神様について無知だった私たちのことを、
まず神様のほうから愛してくださったのだ、
というのです。

神様はその愛を受けるにふさわしいほどまで聖くなれた人々だけを愛される、
という考えは、痩せ細った道徳主義の産物にすぎません。
それでは、良心の呵責に苦しむ人を誰も助けることができません。

私たちキリスト信仰者は、パウロが教えている通りに信じます。
実に、神様の愛の途方もない広大さは、
神様をないがしろにする人々を
神様のほうから率先して愛してくださったところに示されているのです。

2014年8月18日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 5章6〜11節 神様の愛は、本来ならその愛に値しない者に対して向けられます(その1)


神様の愛は、本来ならその愛に値しない者に対して向けられます 
5611節(その1)
  
 

この箇所は、理解が困難な7節を含んでいます。
しかし、この節も
全体の構成の中で捉えることにより理解できるようになります。

「善い」と「義なる」という言葉は、
ここでは同じ意味で使われていると思われます。
この節以降は次のように理解できるでしょう、
「誰か義なる人のために死を選ぶ者がどうにか見つかるかもしれない。
あるいは、善い人(または、善いこと)のために
死ぬだけの勇気をもっている人がいるかもしれない。
しかし、 私たちがまだ罪人だった時に、
キリストが、しかるべき時に、
神様をないがしろにしている人々のために死んでくださったことにおいて、
神様はその愛を私たちに示してくださった」。

基本にある考え方は明瞭です。

人間というものは、
悪人を愛するようなことをまったくしませんし、
たとえ善人のためであっても
自らの命を犠牲にするようなことはめったにありません。
しかしながら、神様はそれとはまったく反対のことをなさいます。
すなわち、 
神様をまったくないがしろにしていた私たちを、 
まず率先して神様が愛してくださったのです。
そして、その御子の命を、
神様に背を向けてきた人々のために犠牲として捧げられたのです。

この点に関して、正確な理解を期して、
これらの節から福音を注意深く聴き取るのが大切です。

2014年8月12日火曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 5章1〜5節 神様が賜る義によって私たちがいただけるものとは?


神様が賜る義によって私たちがいただけるものとは? 515



キリストが私たちにくださった賜物としての義は、どのようなものでしょうか。

それは、
神様が無言のまま首を縦に振ることで、
私たちは罪の呵責から解放されはするが、孤独のままとり残される、
というようなものではありません。

恵みにより私たちは罪を赦していただいたので、
神様に対する私たちの反抗は終わっています。
この戦いの後には、神様との仲直りと平和が訪れました。
しかもこれは、たんなる感情の上の問題ではなく、
人間と神様の間の根本的な敵対関係が実際に終焉したことを意味しています。
私と神様との間の関係は今やしっかり正されているのです。

もしも神様の御言葉自体が私たち皆にこのことを証していなかったとしたら、
いったい誰がここまではっきりと言い切ることができることでしょうか。
私たち人間は実にひどく神様との関係を錯乱させてしまったにもかかわらず、
御子キリストがそれを御自分の血によって整えてくださったおかげで、
私たちと神様との関係は正常化されました。

まさにこのゆえに、
私たちには今、神様の輝く栄光にあずかる希望がもてるのです。
私たちはこうして、神様の善き御手に守られて生きて行く時に、
困難なことや辛いことについても感謝する大切さを学んでいきます。
これらの試練を通しても、神様は私たちを教え導いてくださるからです。
それによって忍耐が生まれ、
忍耐から試練に耐える力が生まれ、
そこからさらに希望が生まれてきます。
このように、神様の御国に属する者たちは、
この世の人々には到底理解できない特別な生き方を学ぶことができます。

神様は善い存在か悪い存在か」、という質問に対して、
一般的に人々は、
彼ら自身がこの世でどのような境遇におかれてきたか
に基づいて判断するものです。
この世がその暗い面を彼らに見せつける場合には、
神様がその諸悪の根源であるとみなされます。
飢饉や苦しみについて、神様を責め立てるのです。

しかし、神様の御国に属する者たちは、それとは異なる人生の教育を受けます。
人は、病床に臥せっていたり、苦しみの只中にあったりする時にこそ、
弱く罪深いその人を担い続けてくださっている神様に対して、
自ずと純粋な感謝の気持ちで満たされる、ということがよくあります。
これは、
その人が、どのような苦しみの中でも
師なる神様の慰めに満ちた御手を身近に感じる術を習得しているからです。

とはいえ、この問題について公に話すことは、控えめにしましょう。
というのは、苦しみの問題は書斎で学べることではなく、
神様からいただく人生の学校で徐々に習得して行くべきことがらだからです。