2023年11月24日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック テモテ

テモテ

 

テモテは新約聖書で24回その名が登場します。

そのうち6回は「使徒言行録」に出てきます。

 

テモテはガラテヤのリステラ出身でした。

彼の父親はギリシア人であり、母親はユダヤ人キリスト信仰者でした。

おそらく彼はパウロが最初の伝道旅行でリステラに立ち寄った時に

パウロの伝えた福音の影響によってキリスト信仰者になったのだと思われます。

パウロのリステラでの出来事については

「使徒言行録」14章8〜23節に記されています。

またパウロはテモテを「信仰によるわたしの真実な子」と呼んでいます

(「テモテへの第一の手紙」1章2節)。

 

パウロは第二次伝道旅行の際にリステラを再訪し、

そこからテモテを伝道旅行に同行させました。

それ以来テモテはパウロがローマで最初に投獄される時にいたるまで

パウロの伝道団の一員であり続けたものと思われます

(「フィリピの信徒への手紙」2章20節、1章1節、

「コロサイの信徒への手紙」1章1節、

「フィレモンへの手紙」1節)。

 

かつて一緒に伝道していたパウロとバルナバが

別々に伝道旅行するようになっていたこともあり

(「使徒言行録」15章36〜41節)、

テモテはパウロにとって最も親しい同僚となりました

(「フィリピの信徒への手紙」2章19〜22節)。

 

パウロは律法に従いテモテに割礼を受けさせました。

これは厳格な律法遵守を主眼とするユダヤ人たちを

必要以上に刺激しないためであったと思われます。

ユダヤ人の母親を持つテモテはユダヤ人であるとみなされていたからです

(「使徒言行録」16章1〜4節)。

それとは対照的に、

ギリシア人であったテトスにパウロは割礼を受けさせませんでした

(「ガラテアの信徒への手紙」2章1〜4節)。

 

「テモテ」(ギリシア語で「ティモテオス」)には

「神様を敬う人」とか「神様の栄光」といった意味があります。

 

パウロはテモテを彼の代行者として

テサロニケに(「テサロニケの信徒への第一の手紙」3章1〜2、6節)、

コリントに(「コリントの信徒への第一の手紙」4章17節、16章10節)、

またフィリピに(「フィリピの信徒への手紙」2章19、23節)

派遣しています。

 

パウロの伝道団に加わった時、テモテはまだ若者でした。

およそ20歳前後だったのではないかと思われます。

しかしパウロからテモテへの手紙が書かれた頃には

35歳くらいにはなっていたでしょう。

「テモテへの第一の手紙」4章12節と

「テモテへの第二の手紙」2章22節を比べてみると

伝道の旅が長く続く間にテモテが歳を重ねていったことが読み取れます。

 

テモテは病気がちで(「テモテへの第一の手紙」5章23節)

また臆病でもあったようです。

パウロはテモテを励ましたり、その臆病さを叱咤したりしています

(「テモテへの第二の手紙」1章7〜8節、2章3節、4章5節)。

 

テモテの母ユニケも祖母ロイスもそろってキリスト信仰者でした

(「テモテへの第二の手紙」1章5節)。

 

「ヘブライの信徒への手紙」はテモテが獄舎から解放されたと記しています

(13章23節)。

しかしいつどこでテモテが投獄されていたのかはわかりません。

 

伝承によればテモテはエフェソの教会の最初のビショップ(教会長)となり、

97年に殉教の死を遂げています。

2023年11月15日水曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 異端の教え

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 

異端の教え

 

三通の牧会書簡のどれもが異端の教えに対する警告を発しています。

すでに述べたように、ここで問題となっている異端は

「グノーシス主義」と呼ばれる神秘的な知(ギリシア語で「グノーシス」)

強調する分派のことです。

 

牧会書簡で言及されている異端については

断片的なことしかわかっていませんが、

聖書の記述に基づいて以下その特徴を列挙してみます。

 

1)この異端の信者の大多数はもともとユダヤ人であったと思われる

(「テトスへの手紙」1章10節)


2)この異端ではモーセの律法が重要視されていた

「テモテへの第一の手紙」1章7節、「テトスへの手紙」3章9節)


3)この異端では神話や系図が中心的な役割を占めていた

(「テモテへの第一の手紙」1章4節、「テトスへの手紙」1章14節)


4)この異端では禁欲主義が要求された

(「テモテへの第一の手紙」4章3節、

「テトスへの手紙」1章14〜15節)。

また結婚することさえ禁止された

(「テモテへの第一の手紙」4章3節)


5)この異端では「死者からの復活はすでに起きた」と主張された

(「テモテへの第二の手紙」2章18節)


6)この異端では神様の御国ではなく自己の利益が追求された

(「テモテへの第一の手紙」6章5節)

 

テモテとテトスはこの異端を

「わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教」

によって反駁しなければなりませんでした

(「テモテへの第一の手紙」6章3節)。

 

2023年11月2日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック パウロの第四次伝道旅行

パウロの第四次伝道旅行

 

教会教父エウセビオスはその主著「教会史」で

パウロがローマで釈放された後にイスパニヤを訪れたと記しています。

この記述と「ローマの信徒への手紙」15章24〜28節を

比較してみてください。

 

牧会書簡はパウロが再度東方を訪れたことを前提として書かれていますが、

聖書の他の箇所にはこのことについての言及がありません。

 

結局のところ、最初期の教会の出来事については

ごくわずかのことしかわかっていないのです。


パウロがクレタ島(口語訳では「クレテ」)を訪れたことについて

ルカは「使徒言行録」で何も言及していません。

パウロがクレタ島を短期間訪れたのは、

第二次伝道旅行の時にコリントからであったか、

あるいは第三次伝道旅行の時にエフェソからであったという可能性があります。


たとえかりに「テトスへの手紙」が

パウロの弟子の書いたものであったとしても、

この手紙はクレタ島にパウロの教えを受けた教会がすでに存在していたことを

前提としています。


私たちは聖書の時代の出来事のすべてを把握しているわけではありません。

それゆえ、例えばパウロのクレタ島訪問のように、

ある出来事について聖書の一箇所にしか記述がないからといって

その出来事が事実ではなかったかのように主張することはできないのです。

 

パウロがギリシアと小アジアを四度目に訪れた時の様子について

牧会書簡はどのように記述しているでしょうか。

 

1)パウロはローマでの投獄状態から約62年頃に釈放された。


2)パウロはイスパニヤに行った

(「ローマの信徒への手紙」15章24〜28節)。


3)そこからおそらくローマを通ってクレタ島へ行き

(「テトスへの手紙」1章5節)、テトスはそこに残った。


4)クレタ島からミレトス(口語訳では「ミレト」)へ向かった

(「テモテへの第二の手紙」4章20節)。


5)ミレトスからコロサイへ(「フィレモンへの手紙」22節)行った。


6)コロサイからエフェソへ(「テモテへの第一の手紙」1章3節)行き、

テモテはそこに残った。


7)エフェソからフィリピへ(「テモテへの第一の手紙」1章3節)行った。


8)フィリピからニコポリス(口語訳では「ニコポリ」)へ

(「テトスへの手紙」3章12節)行った。


9)最後にローマへ行った。

そこで67年か68年にパウロは剣で惨殺され殉教する。

パウロが捕まったのがすでに東方においてであったのか

それともローマに来てからであったのかについては

推測の域を出ない。

 

パウロが伝道旅行で立ち寄った場所の訪問順については

別の可能性も考えられます。

エフェソ、マケドニヤ、クレタ島、エフェソ、

ミレトス、トロアス、ニコポリスという順です。

 

「テモテへの第一の手紙」と「テトスへの手紙」は

60年代の中頃(63年〜66年頃)に書かれ、

「テモテへの第二の手紙」は

パウロがふたたびローマで投獄された時期(67年〜68年)に書かれました。

 

パウロは「テモテへの第一の手紙」を

おそらくマケドニヤで書いたものと思われます。

「テトスへの手紙」はエフェソかあるいはコリントで書かれました。

「テモテへの第二の手紙」はローマで執筆されました。