2010年9月29日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章10~17節

教会の中の争い 1章10~17節

神様への賛美の後で、パウロはすぐに本題に入ります。
コリントは争いが絶えない教会でした。
パウロはコリントから来た教会員から今の教会の状態を聞いて知ったとは言っていません(16章15~18節)。
そんなことをすれば、争いが減るどころか、いっそう悪化してしまうことでしょう。
パウロは「クロエの家の者たち」から教会のことを聞いて知りました(1章11節)。
クロエは当時の奴隷のふつうの名前でした。
ですから、このクロエというクリスチャンの女性は比較的富裕な解放奴隷であった、と考えられます。
確かなことはいえないにせよ、彼女はコリントには住んでいなかった、と推定することができます。
パウロは教会外部の情報源を意図的に選出し、ここで提示しているわけです。
「クロエの家の者たち」、すなわち奴隷たちがコリントを訪問したということは、パウロが当地の教会の状態についての情報を得た理由を説明するのに十分だったので、コリントの信徒たちは誰がパウロに告げ口したかについて互いに責め合う必要はありませんでした。
それにまた、教会内での争いは外部の人間が訪問した際に気がつくほどあからさまなものだった、とも推定できるのです。

コリントの教会では、「自分はパウロにつく」、「自分はアポロに」、「自分はケファ(ペテロのこと)に」、「自分はキリストにつく」、と言い争う人たちが出てきました。
パウロは、「教会内のこのような分派争いはまったく愚かなことであり、罪の結果に他ならない」、ということを示しました。
クリスチャンの一致の根本にあるのは、皆がキリストと結び合わされるために洗礼を受けている、ということです。
誰ひとり、パウロやペテロの名によって洗礼を受けてはいません。
それゆえ誰も、教会を人間のリーダーに基づいて分けてはいけないのです。
パウロは、自分がわずか数人のコリントの人に洗礼を授け、他の人たちには彼の協力者たちが洗礼を授けるようにしたことを、神様に感謝しています。
もしもそうではなかったならば、クリスチャン同士の一致の基、洗礼さえも、コリントの教会をばらばらにする口実とされたことでしょう。
17節でパウロはコリントで争い合っている者たちを恥じ入らせるようなことがらに、話題を移します。
すなわち、キリストの福音についてです。

2010年9月22日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章1~9節 

  
「コリントの信徒への第一の手紙」1章  
 
あいさつ 1章1~9節  
  
現代と同じく古典時代でも、手紙はある種の決まり文句にしたがって始められ、また終わりました。
単純なのは、「AがBにあいさつを送ります」、あるいは、「A、Bに」というパターンです。
ふつう手紙の終わりには、「お元気で」という短い言葉が添えられていました。
古典時代には、手紙はたとえば次のように始まります、「使徒および長老たちから、異教から改宗した信仰の兄弟たちに、あいさつを送ります」(「使徒の働き」15章23~29節)。
手紙の中でパウロは、このような決まり文句を部分的に採用し、そこに独自の新しい表現も盛り込んでいます。
今取り扱う「コリントの信徒への第一の手紙」でも、あいさつはふつうの手紙よりも長めです。
大胆にもパウロは、自分のことを「神様の御心によるキリストの使徒」と名づけています。
この手紙のもうひとりの差出人は、ソステネという人です。
彼はもしかすると、アカヤの総督ガリオが冷ややかに見守る中、ユダヤ人から暴行を受けたコリントのユダヤ人会堂(シナゴーグ)の前の責任者であった人かもしれません(「使徒の働き」18章)。
だとすると、パウロの以前の反対者(だったかもしれない)者がクリスチャンになり、今やパウロと一緒に仕事をしている、ということになります。
  
はじめのあいさつの中のいくつかの短い言葉は、大半の聖書の読者にはたやすく見過ごされてしまうようです。
パウロはこの手紙を「神様の教会」に宛てて書いています。
これは、「聖」なる人々、「キリスト・イエスが聖とされた」人々のことをさしています。
私たちは自分のことを「聖なる人」とはなかなか呼べないものです。
「それは言いすぎだ」、と私たちは考えるのです。
私たちはふつう自分のことを、まったくの悪人とも思いませんが、聖人だとも思えないのです。
パウロの言葉遣いは、「聖」とは何か、私たちに教えてくれます。
もちろんパウロは、コリントの教会がどのような群れであるか、よく知っていました。
彼らは互いに争い合い、ひどい罪の生活を送り、自分自身に与えられた恵みの賜物によって驕慢になっていました。
にもかかわらず、パウロはコリントの教会を、「聖」と、「聖別されたもの」と、呼んでいるのです。
それはなぜでしょうか。
聖には段階などはない、ということです。
人は、聖であるか、あるいは、聖でないか、のどちらかです。
もし人が聖でなければ、その人は神様の呪いの下にあります。
もし人が聖ならば、その人は神様の呪いの下にはいません。
教会の「聖」は教会員自身の聖ではなく、キリストが賜物として与えてくださった「聖」なのです。
  
手紙を書くときパウロは、はじめのあいさつの後、神様へ感謝を捧げます(「ローマの信徒への手紙」1章8~10節、「コリントの信徒への第二の手紙」1章3~4節、「フィリピの信徒への手紙」1章3~6節などを参照してください)。
今もパウロは自分のスタイルを変えず、コリントの信徒たちのゆえに神様に感謝しています。
この段階ではパウロは、教会の問題については何もふれず、知っていることをとりあえず脇に置いて、彼らを喜ばせることに専念します。
パウロは、コリントの信徒たちが手紙の始まりの部分ですぐに耳をふさいでしまうような事態を避け、彼らに言うべきことがらを彼らがおわりまでちゃんと聞くことができるよう、努力しています。
そのためにパウロは、礼儀正しく格調高く手紙を書き始め、教会に感謝しているのです。
とりわけ、パウロはコリントの教会の豊かさを強調します。
この教会の中には、他の教会よりも多くの特別な恵みの賜物があったからです。
 

「コリントの信徒への第一の手紙」 手紙の構成

 
手紙の構成
  
1章1~9節   あいさつ
1章10節~4章21節  コリントの教会の争い
5章1節~6章20節   コリントの教会の倫理的な間違い
7章1~40節   結婚
8章1節~11章1節   偶像に捧げられた肉
11章2節~14章40節  礼拝
15章1~58節   復活
16章1~24節   手紙の終わり

2010年9月20日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 牧会のプロとして

牧会のプロとして
  
コリントの教会では、霊的な面と肉的な面とが奇妙に一体化していました。
教会員の中にはさまざまな恵みの賜物をいただいた者が大勢いて、各々、自分の方がパウロよりも優れた専門家である、と自負していました。
一方では、港町の悪弊が教会に入り込み、ひどい罪がおおっぴらに行われていました。
パウロがこの愛する問題だらけの教会にどのような手紙を書いているかを読むのは、とても興味深いものがあります。
パウロは、自分で行ったことがないローマの教会に対しては、慎み深く礼儀正しい手紙を書きました。
今回はそうではありませんでした。
パウロは、ガラテアの教会に対しては、福音の核心を弁護するために、怒りのほとばしる手紙を書きました。今回は怒りを爆発させることもありませんでした。
パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」で、できうるかぎり慎重に、コリントの信徒に対して自分自身の証をしています。
パウロは、コリントの教会が彼の教えを受け入れることを信じ、コリントの信徒が愛用している言葉遣いを採用しています。
もっとも、時には「ガラテアの信徒への手紙」で周知のパウロの鋭利な言葉の刃が飛んでくることもあります。
そうした箇所ではパウロは、コリントの教会に自分勝手に活動する余地を微塵も与えてはいません(「コリントの信徒への第一の手紙」5章、14章)。

2010年9月17日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 パウロとコリントの信徒との間の手紙のやりとり

   
パウロとコリントの信徒との間の手紙のやりとり
  
私たちの手元に残されているのは、パウロとコリントの教会との間の手紙のやりとりのうちの一部にすぎません。
「コリントの信徒への第一の手紙」の1章11節と7章1節には、パウロがコリントの教会から手紙を受け取ったことが記されています。
5章9節では、パウロは以前自分がコリントの信徒に送った手紙についてふれています。
「コリントの信徒への第一の手紙」を書く前に、パウロは、コリントの教会には何か問題があるということを知らされました。
パウロはコリントの教会にテモテを派遣しましたが(4章17節)、テモテも教会の秩序を正すことができませんでした。
それで、パウロはこの手紙を書くことになりました。
ところが、パウロの手紙でさえも、状況をすぐに変えることはできなかったのです。
使徒パウロに残された唯一の方法は、自分自身で実際にコリントに赴くことでした。
このコリント訪問について、パウロは「コリントの信徒への第二の手紙」の13章2節で語っています。
このパウロの二度目のコリント訪問は完全に失敗に終わったようにみえます。
その後で彼にできることは、全力を注いで非常に厳しい火の出るような手紙をコリントの教会に送りつけることだけでした(「コリントの信徒への第二の手紙」2章4節、7章8節)。
この手紙はコリントの信徒たちの心を砕きました。
彼らは神様の御心にかなう仕方で悲しみ、悔い改めたのでした。
「コリントの信徒への第二の手紙」では、パウロはこの都市の教会に宛てて愛情と仲直りの気持ちを込めて書いています(7章6~13節)。
   
パウロとコリントの教会との間の手紙のやり取りの過程や、意見の食い違いの原因について、私たちにはわからないところがあります。
ともかくも、パウロはコリントの教会で強い影響力をもっている異端の教師たちに対して苦しい立場に追い込まれ、自分に与えられた使徒の任務が正当なものであることを自分で弁護しなければならなくなりました。
コリントの教会に宛てた最初の手紙は、エフェソで聖霊降臨日(五旬節、ペンテコステ)の頃、つまり春に書かれています(「コリントの信徒への第一の手紙」16章8節)。
パウロの生涯に起きたほかの出来事と照らし合わせてみると、手紙が書かれたのは西暦54年か55年であったと推定できます。
「コリントの信徒への手紙」の読者は、パウロがコリントの教会ととても難しい関係になっていることに気がつきます。
しかし、パウロの努力はむだにはなりませんでした。
コリントの信徒たちは、一世紀の終わりになってもまだ牧会の難しいやっかいな群れでした。
このことについては、使徒教父文書のひとつ、「クレメンスの手紙」に語られています。
ところが、後の時代になって、コリントは正しいキリスト教の信仰を守り続ける堅固な砦となったのでした。

2010年9月7日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 罪深い都市、コリント

罪深い都市、コリント

コリントには古く輝かしい歴史がありました。
ギリシア人が海洋術を学ぶとまもなく、両側に海浜をもつ狭い峡部に位置するこの都市は、絶好の港町となりました。
ギリシアが勢威を振るった時代(紀元前480~330年)に、コリントは海洋業が盛んな活気あふれる町でした。
その後、ギリシアの覇権を握ったのは、フィリッポスとその息子アレクサンダー大王の率いるマケドニア人であり、さらに100年後、彼らに続いて支配の座に着いたのは、ローマ人でした。
こうした変遷の中で、ギリシア人の都市国家の重要性は薄れていったのです。
コリント主導の下に結集した都市国家は、ついにローマに反旗を翻しました。
紀元前146年、ローマ人は、ほかのすべてのギリシア人に対するみせしめとして、コリントを破壊しました。100年後、紀元前46年に、ガイウス・ユリウス・カエサルはこの都市をローマ人の植民都市として再建しました。
地の利を生かして、コリントはまもなく新たな隆盛を迎えました。
すでに紀元前29年には、コリントはアカヤ州の首都、総督府の都市となっています。
パウロの時代には、コリントは現代の大きな港湾都市と同じような賑わいを見せていました。
そこには、ありとあらゆる堕落と不道徳がありました。
都市には大金持ちも貧乏人も大勢いました。
それに加えて、港町にはさまざまな新しい宗教がなだれこんできていました。
これらすべてのことが、コリントの教会および「コリントの信徒への手紙」の中にくっきりと刻印を残しています。
  

2010年9月1日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 はじめに

  
これからは、「コリントの信徒への第一の手紙」を主に信徒同士の聖書研究会で読むために書かれたガイドブックを翻訳掲載していく予定です。



コリントの信徒への第一の手紙を読むためのガイドブック
  
著者 エルッキ・コスケンニエミ (牧師、神学博士)
  
フィンランド語から翻訳編集 高木賢 (神学修士)
 
   
争いの最中で
  
はじめに
  
パウロのヨーロッパ伝道は、さまざまな困難の中ではじまりました。
使徒の働き16章はパウロとシラスが投獄されたことを記しています。
テサロニケとべレアから、パウロは危うく死にそうな目にあいながら逃げ出さなければなりませんでした(使徒の働き17章)。
ヨーロッパ文明のゆりかご、アテネでは、福音は嘲笑の的になりました。
これらのことを体験したばかりのパウロは、アテネから、悪名高い港町コリントへと向かいました。
パウロがコリントの信徒たちに、「私はひどく弱り、恐れ、震えながらあなたがたのところに行きました」(コリントの信徒への第一の手紙2章3節)と書いたのは無理もありません。
ところが、おびえる心でコリントに着いたパウロは、主の器として一年半の間、誰にも邪魔されずに働くことができました。
この時期の出来事については、使徒の働き18章で語られています。
人間的に計算する場合にはまったくありえないことだが、実はコリントには「神様のもの」となる人々がたくさんいる、と神様はパウロにお告げになりました。
主は約束されたことを実行なさり、多くの人の心を異教から引き離してキリストの方へと向けさせました。
まもなくユダヤ人たちはパウロが会堂(シナゴーグ)に入れないように邪魔しましたが、会堂の隣に住んでいた神様を畏れる異教徒のテテオ・ユストの家で、パウロは迷うことなく説教を続けました(コリントの信徒への第一の手紙18章6~7節)。
ユダヤ人と他の民族(「異邦人」)との間の溝は、現代の私たちの想像をはるかに超える深いものでした。
福音がこの溝の上に橋をかけました。
コリントの教会員の大部分は、以前異教徒でしたが、その中にはユダヤ人も含まれていました。
  
ほかの都市でも生じた艱難が、ついにはコリントでも起こりました。
西暦50年、アカヤのローマ人の最高指揮官なる総督として着任したルキウス・ユニウス・ガリオに対し、コリントのユダヤ人たちはパウロのことを訴えました。
ところが、総督は宗教に関わることがらを法廷で取り扱うことを認めませんでした。
この決定にもかかわらず、パウロはまもなくどこかほかのところで福音伝道の仕事を続けることに決めました。
こうしてパウロは活発なコリントの教会を後に残しました。
   
この教会に宛てたパウロの手紙は、全新約聖書の中でも最も大切な書物のひとつです。
コリントの教会はパウロにとって、いろいろな意味でやっかいでした。
まさにそのゆえに、パウロは全力を尽くして手紙を書かなければなりませんでした。
このことは、コリントの信徒への手紙から読み取れます。
そしてそれゆえに、とても読み応えのある手紙になったのです。