2008年2月29日金曜日

神様から来るリヴァイヴァル

「人が霊的に目覚める」というのはどういうことか、考えてみましょう。


神様から来るリヴァイヴァル

エルッキ・コスケンニエミ


「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねなさい。近くおられるうちに呼び求めなさい。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰りなさい。そうすれば、主はその人をあわれんでくださいます。私たちの神様に帰りなさい。主は豊かに赦しを与えてくださいます。私の思いはあなたがたの思いとは異なり、私の道はあなたがたの道とは異なっている、と主は言われています。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与えます。このように、私の口から出る言葉もむなしくは私のもとに帰りません。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを実現します。あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行きます。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打ちます。いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生えます。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはありません。」(イザヤ書55章6~13節)

このイザヤの言葉を聞いたのは、バビロン捕囚の下に置かれていた神様の民でした。この民は主の戒めをひどく破り、すべてを失ったのでした。エルサレムは荒れ果て、もはや自分たちの王はいませんでした。主の聖なる神殿は汚され、壊されていました。ところが、それから何十年も経った今になって、この民に神様の御言葉がおとずれ、新しい恵みの契約へと招待したのです。「民は喜びの中に自分たちの土地に帰ることができる」と、主は約束してくださいました。神様は御言葉をむなしく送られたわけではありませんでした。神様のくださった雨が、すべてが実を結び成長するように働きかけるのと同じように、御言葉もまた働きかけます。御言葉は、主がそれに与えた使命を正確に実現します。上に挙げたイザヤ書の御言葉もその通り実現し、神様の民は自分たちの土地へ帰ることができたのでした。

歴史は私たちに、神様の御言葉にはすごい力があることを教えてくれます。この力は今日でもちゃんと御言葉に保存されているのです。それゆえ、私たちはリヴァイヴァル(多くの人がある時に霊的に目覚めること)を祈り、「神様はそれを今でも私たちに与えることがおできになる」と強く信じています。


神様から来ていないリヴァイヴァルもあるのでしょうか?

確かに、神様から来ているとは言えない「リヴァイヴァル」もあります。私たちはすべての霊的なことがらを神様の御言葉によって評価しなければなりません。真のリヴァイヴァルは神様の御言葉の中に留まります。人々が自分の罪を告白して、自分の力ではなくイエス・キリストのゆえに、「自分が聖である」ことを信じて、神様の御言葉に従って活きて行くように人々を導く者は、神様の御心に適うことを行っているのです。本物のリヴァイヴァルの伝道者は、自分の心の不幸なほどののろさや冷たさを嘆いている人に対しても、何かよいメッセージがあるはずです。神様の恵みは、はるか彼方から降ってきて、ひどく冷え込んでしまった心の持ち主に新しい愛と力を与えるものでなければなりません。

一方では、私たちは、自分たちの用心深さのせいで、リヴァイヴァルの火を消してしまうことがないように注意しなければなりません。リヴァイヴァルでは、常識では考えられないようなことが起こるので、それに付随して、本来のリヴァイヴァルではないようなことが起きるのもさけがたいのです。たとえば、信仰の核心がちっともわかっていないままで、周りから注目を浴びようとする人たちも混ざってきます。霊的な力を経験した人が、他の人も皆自分と同じ経験をするように激しく要求する場合もあります。自分の教えの内容が、実は聖書とは違う何か他のものに基づいていることに、気が付かない人もいます。
このような状況の中で、私たちはどこか安全な場所に逃げ込んで、そこから決定的なパンチを繰り出す、というやり方もありうるでしょう。
もうひとつの方法は、パウロのように、今起きているリヴァイヴァルについて認めることができる点はちゃんと認めて、相手の使い慣れた言葉を用いて、相手の弱い点を忍耐しつつ、しかし同時に、神様の真理をはっきりと前面に打ち出す、というやり方です。
私たちも、リヴァイヴァル運動に参加してきた信仰の兄弟姉妹の中にリヴァイヴァルとは相容れない面や間違っていることがあった場合にどのようにして彼らと出会い付き合っていくべきか、あらかじめ心の準備をしておくべきでしょう。
神様の御言葉は、私たちがそれにしっかりつながっている限り、リヴァイヴァルを整え導きます。神様も私たちに対して忍耐され、私たちに真理を学ぶ時間を与えてくださっているのです。私たちも隣人に対して同じようにしない理由があるでしょうか?


リヴァイヴァルの核心とは何でしょうか?

ローマの信徒への手紙3章

どんなリヴァイヴァルでも神様から来ているというわけではありません。この世には、神様の真理から何光年も離れているような熱狂的な運動がたくさんあります。「宗教的」であることが、キリスト教にとって最悪の敵となるさえあります。どうすれば私たちは、真のリヴァイヴァルを見分けることができるのでしょうか。

神様の与えてくださった本物のリヴァイヴァルは、聖書にしっかりと基づいています。そこでは人は、自分の本当の状態に気が付きます。今の世の中では、神様をまったく必要としていないかのように思い込んでいる人たちが大勢います。彼らは、信仰のことがらを考えることがあったとしても、それはせいぜいロウソクを点して聖なる雰囲気を味わったり、美しく飾られたクリスマス礼拝に参加したりする程度のものでしょう。彼らにとって教会は雰囲気を提供する場にすぎません。罪と恵みについての話は彼らにとってちんぷんかんぷんです。「私は銀行強盗をしたこともないし、誰も殺したことがないのだから、何も怖がる必要はないだろう?」確かに人々の前では何も恐れる必要はないかもしれませんが、神様の御前ではそうではありません。
ローマの信徒への手紙3章は、人は各々神様の御前で罪深い存在である、と教えています。人にはいつも悪い考えや悪い言葉や悪い行いが伴っている、ということは、「人は、神様の栄光を受けられなくなっている」ということを意味しています(23節)。つまり、人は神様の栄光へと入っていくことができないのです。人の本来行くべき場所は、永遠の滅びです。

このことについて多くの人たちは、家に火がついて煙が立ち昇り始めているのにぐっすり眠り込んでいる人と同じくらい、無頓着なままです。そういうときには本当なら目を覚まして危険を察知するべきなのです。私たちを罪のまどろみの中から起こしてくれるのは、神様の御言葉です。これによって私たちは、自分たちが神様の怒りと裁きを受けるのが当然であることを、知ります。そしてこうしたことがわかるようになるのは、人が理性的に自分の頭で考えたからではなく、神様が与えてくださった大きなプレゼント、聖霊様の働きのおかげなのです。

私たちが絶望のうちに死ぬことがないように、神様は働きかけてくださいます。聖書にこう書いてあります。
「すべての人は罪を犯して、神様の栄光にあずかれなくなっています。彼らは、価なしに(ただで)、神様の恵みにより、キリスト・イエスにおけるあがないを通して、義とされているのです。」(ローマの信徒への手紙3章23~24節)
私たちの罪は神の小羊イエス様の血によって赦されています。これが私たちにとって唯一の「避難所」です。信じ始めたばかりの人にとっても、また、ヴェテランの信仰者にとっても。この守りの城砦は決して揺るがず、私たちを裏切ることもありません。

このように真のリヴァイヴァルとは、「罪と恵みを知ること」です。それは、はじめからおわりまで聖霊様のみわざです。「聖書は聖霊様の働きかけによって生れた」ことを、私たちは信じます。それゆえまた、「今もなお、聖書は聖霊様に反対して語ることは決してない」と私たちは信じます。真のリヴァイヴァルは、「偉大な神様と御言葉を前にして畏れる心をもって歩むこと」を人々に伝えていくものです。


リヴァイヴァルを体験する必要があるのでしょうか?

人はその人生の中で「リヴァイヴァル」(あるいは「新しく生まれる」とか、「信仰に入る」とか、いろいろな言葉がありますが)を体験することが絶対に必要である、と考えるクリスチャンがいます。「人は心の底から自分を主にお渡しし、霊によって満たされることが必要だ。もしもそうでなければ、誰も神様のものではありえない」というのです。

私たち人間は、自分で決めた要求を自分に課すのに慣れています。そして、「他の人も皆、自分と同じように体験するべきである」と要求しがちです。しかし、とりわけこうした問題については、人は神様の御言葉を超えて何か勝手なことをやってはいけません。もしも人がキリストを受け入れるのならば、すべてはそれで大丈夫なのです。自分の考えに頼って神様のみもとに行ける人はひとりもいません(たとえば、コリントの信徒への第1の手紙2章14節)。それはいつも聖霊様のみわざです。私たちは皆それぞれ異なっています。敏感な人もいれば、そうではない人もいます。敏捷な人がいれば、のろい人もいます。天の父なる神様は御自分の子供たちをよく御存知です。お父様は私たちをどのような道に沿って導いていかれるか、よく御存知です。自分の罪や心の冷たさを悲しんでいる人は、それが実は聖霊様が与えてくださった賜物であることを知りなさい。自分の希望をキリストに託す人は、救いの道を歩んでいます。私たちには、私たちのあがない主なるキリストがおられる、ということで十分なのです。イエス様は、私たちを聖なる洗礼において「御自分のもの」としてくださいました。イエス様は、私たちに御自分の恵みを主の聖餐で分け与えてくださいます。イエス様は、神様の御言葉の中で、あなたを愛しておられることを誓っておられます。

私たちは自分の人生の中で、ある特殊な体験や決まったパターンを必要とはしていません。私たちが必要なのは、イエス・キリストです。もしも私たちにイエス様がおられるならば、実は私たちにはすべてがあるのです。もしも私たちにイエス様がおられないならば、私たちには何もないのです。たとえ私たちがどれほど「宗教的」であったとしてもです。


リヴァイヴァルを経験した人は、いつも目を覚ましているのでしょうか? 

一度リヴァイヴァルを体験した人が、おわりまで「目を覚まし続けている」とは限りません。キリストは御自分の民が目を覚まし続けているようにと、忠告なさっています。私たちが出会う危険は大きいのです。神様の子供は、神様からいただいたものを、いともたやすく失ってしまいます。 滅びの道を歩んでいる者にとって、一度若いときに経験したリヴァイヴァルは、たいした役に立ちません。自分の力に頼る限り、私たちは、ゲッセマネにいた弟子たちと同じようなありさまです(マタイによる福音書26章)。キリストは弟子たちを何度も起こさなければなりませんでした。にもかかわらず、弟子たちはいつも深い眠りにとらわれました。それゆえ、私たちは、リヴァイヴァルを神様に絶えずお願いして、こう祈ります。「主よ、あなたの教会を眠りから起こしてください。そして、それを私からはじめてください!」




2008年2月13日水曜日

私は正しく生きているでしょうか。

何がクリスチャンとして正しい生き方か、どうすればそのように生きられるか、今日はこのことを考えてみたいと思います。


私は正しく生きているでしょうか。


ヤリ・ランキネン


神様は人を「御自分のかたち」に創られました。それは、神様は人をあることがらについては「神様と似たもの」となさった、という意味です。「神様のかたち」は、神様が知っておられるのと同様に、何が正しくて何がまちがっているか知っていました。神様のかたちとして人は「悪を避け正しく行動しなければならない」ことを理解し、また常に正しく行動しました。神様のかたちとして創られたということは、自分の行いについて神様に対して責任をもつということでもあります。神様は御自分のかたちに対して「神様のように生きていたか、正しいことを行ってきたか」について厳しいチェックを要求なさいます。ところが、はじめの人(アダムとエバ)が罪に堕落するということが起きてしまいました。その結果として人は「正しく生きるという能力」を失ってしまいました。罪の堕落が起きたため、私たち人間はするべきではないことを行い、しかもそれをせずにはおられなくなってしまいました。たとえそうすることが間違っているとわかっている場合であっても。たとえどんなに違った生き方をしようと努力しても。罪の堕落のもうひとつの結果として人は何が正しく何が間違っているかを知る能力がひどくあいまいになってしまいました。私たちの心の奥底も罪の堕落のために罪に汚されてしまっているため、正しいことを間違ったこととし、間違っていることを正しくみなしてしまうことがあるほどゆがんでしまっています。しかも実際にしばしばそのように行ってしまうのです。それゆえ、何が正しく何が間違っているかについての知識を私たち自身の「外側」から得る必要が私たちにはあります。確かに罪の堕落が起きてしまったとはいうものの、私たちは依然として「神様のかたち」なのです。私たちには正しいことと間違っていることについての理解が、たとえそれがどんなに曇ってしまっているとしても、残っており、私たちは自分の行なったことについて神様に対して責任を負うことになるのです。

罪の堕落は人を御自分のかたちとして創られたお方を汚しはしませんでした。創り主なる神様は何が正しく何が間違っているか、人の罪の堕落の前も後もかわりなく御存知で、常に正しく働かれています。神様は正しいことと間違っていることについての知識を御自分のものだけに留めてはおかれませんでした。神様はこれらについても私たちに御自分の御言葉をお与えになることによって語っておられます。それは次のふたつのことを意味しています。
1) 神様は聖書を与えてくださいました。神様の選ばれた人々が、神様が御自分で創られた人間に対して言われたいことを書き取りました。聖書には正しいことと間違っていることとについて聖書の立場を明瞭にしている箇所が数え切れないほどたくさんあります。それらは、何が正しく何が間違っているか正確に御存知である神様御自身の立場の表明なのです。それゆえ、正しいことと間違っていることとの感覚が曇ってしまっている私たち人間はそれらを注意深く聴いていくべきです。
2) 神様御自身がこの世に来られました。イエス様が人としてお生まれになったときにこのことは実現しました。イエス様は神様の御言葉であられ、神様御自身であられます。イエス様の中で「天地の主」が話し、教え、活動し、働きかけておられます。それゆえ、イエス様が正しいことと間違っていることとについて教えておられることは「神様の教え」なのです。私たちは「何が正しいか」を問うときには、「イエス様はどのように考えておられるか」について問うべきです。もしもそれを知るならば、私たちは神様の立場を知ることになります。イエス様のお考えについて私たちは聖書から知ることができます。聖書はまさしくイエス様についての書物なのですから。

聖書が何が正しく何が間違っているかについて語っていることは、人間が心の中でぼんやりと理解していことがらに対応しています。聖書が命じたり禁じたりしていることを聞くときに、あたかも私たちの心の中で誰かが「これは本当だよ」と言っているかのように感じるものです。たとえ人がそのあとで聖書の教えに反抗することになったとしてもです。これはどうしてでしょうか。それは、聖書が私たちの創り主の書物であり、私たちが私たちの創り主のかたちであるからです。人間ひとりひとりの中にある「何か」が、私たちの創り主が正しいことと間違っていることについて語っておられることがらに対応しているのです。このことは、私たちが聖書の命じていることがらをまわりにもはっきり語って、またそれに従って活動するように励ましてくれることでしょう。

ソヴィエト連邦では聖書の命じていることがらを教えることが禁止されました。聖書は廃棄され、また聖書の教えは人間たちが自分で考え出したいろいろな教えに取って代えられました。それらの新しい教えは聖書よりもずっと優れていると感じられたのです。さあ、何が起きたでしょうか。国民は盗んだり嘘をついたり周りの人を無視して生活することを学んでしまいました。国の経済もめちゃくちゃになり、前の「敵国」からの援助なしには立ち行かなくなりました。もっとも援助があっても厳しい状況はつづきましたが。自然もひどく破壊されました。ソヴィエト連邦ではこういう結果になりました。聖書やその命じていることが無視されているところではどこであれ、それと同じようなことが起こります。聖書は人間に最上の生活の教えを与えています。たとえば携帯電話など何か装置を使用するときに、その製造元が与えた装置の使用法を無視していると、その装置はまもなく壊れてしまいます。聖書ではこの世界の「製造元」が話しているのです。そしてこの「製作者」は、自分が創った世界でできるかぎり多くのものができるかぎりよい状態を保つためにはどのように生きていくべきなのか、よく知っています。

正しいことと間違っていることについての聖書の教えはすべて「愛の二重命令」に言い尽くされています。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」(マタイによる福音書22章37、39節)。「愛さなければならない」ということについては、間違いなく私たち人間は皆同じ意見でしょう。しかし、「愛とは何か」という点に関してはいろいろな意見があります。「愛とは何であり、様々な状況でどのように愛を実現していくべきか」ということについては、私たちの「外部」から説明してもらえない限り、私たちは知ることができません。そして聖書の中でその説明がなされています。聖書の中にある他の命令は「愛の二重命令」を補足説明するものなのです。十戒は愛の命令をすでにかなり広範にわたって説明しています。第一戒から第三戒までは「神様を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、私たち人間が他の神々(偶像)に仕えたりしないこと、神様の御名をいたずらに用いたりしないこと、安息日を聖とすることです。第四戒から第十戒までは「隣り人を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、両親を敬うこと、殺さないこと、姦淫をしないこと、盗まないこと、偽証しないこと、他の人のものを欲しないことです。

聖書には他にもたくさんの命令があります。それらもまた「神様や他の人を愛するとはどういうことか」ということを説明しています。聖書は人がすべてのことについて神様に感謝するように命じています(テサロニケの信徒への第1の手紙5章18節)。それは神様に感謝することは神様を愛することだからです。聖書は「税金を払わなければならない」と教えています(ローマの信徒への手紙13章5~7節)。たとえそれが高すぎると感じられる場合であってもです。税金をごまかして申告をするのは他の人たちに対する愛の欠如のあらわれなのです。

イエス様が地上で何を行われたか、どのように活動されたか、何を話されたか、ということから私たちは「神様と隣り人を愛することがどういうことであるか」を知ります。イエス様の中で神様御自身が活動なさいました。そして神様は愛の命令を破ったりはなさいません。私たちだったらこうはしなかっただろうと思われるような状況の中でもイエス様は愛してくださり、正しく活動されました。「何が愛であり、どのように活動すべきか」考えるときに、「イエス様だったらこのような状況の中でどのようになさるだろうか」考えてごらんなさい。イエス様と同じように行いなさい!もしそうするなら、あなたは愛しているのです。

私の友人はあるとき不倫についての教会の見方についてインタヴューを受けました。質問者は3度も違う表現と違う根拠を持ち出しては自分自身が行っている不倫を正当化しようとしました。私の友人が「聖書には第六戒がある」と3度繰り返して答えたところ、その質問者は傷ついて、「あなたたちの中にはもっと事情に通じている専門家はいないのか」と尋ねました。不倫についての聖書の取る立場があまりにも嫌だったので、質問者はそれを斥けて、もっと自分にとって都合のよい答えを聞きたくなったのでした。聖書の 多くの命令は、それらがまさしく「私たちが聞きたくないようなメッセージ」であるため、私たちにとって受け入れるのが難しいものなのです。なぜなら、聖書が言っていることとは違うことを私たち自身が行っているからです。そういうわけで「もうこのような聖書の命令は従う必要がないだろう」としばしば言われたりするのです。

聖書の中には「古びた命令」があるのでしょうか。つまり現代の世界ではもはや従う必要がなくなった命令があるのでしょうか。私たちよりも優れた回答者である「神様の御子」が正しい答えを教えてくださっています。
「私はあなたがたにまことのこと[1]を告げます。天地が消え去るまでは、すべてがなるまでは、律法から一点[2]、一画[3]もすたることはありません。」(マタイによる福音書5章18節)。聖書は神様の御言葉です。神様は変わりません。神様が言われたことも変わりません。神様が罪と定められたことは罪です。それは罪であったし、今も罪であるし、これからも罪です。たとえ私たちが「どうしてそれがもはや罪ではないか」よい説明をこしらえたとしても。あるいは、たとえ私たちが行っていることがあまりにも一般的でもはやそれが罪とはみなされてはいなかったり、少なくとも悪質の罪であるとはみなされていない場合であっても。神様をうそつき呼ばわりするのは神様を侮蔑することです。「(自分たちにとって都合の悪い)神様の御言葉のこの部分とあの部分はもはや有効ではない」などと考えている者は、神様をうそつき呼ばわりしています。大切なのは、「私たち人間は罪に堕落した存在であり、それゆえ正しいことと間違っていることとについての私たちの理解はおかしくなっていること」を強調することです。人間とは違って、神様は堕落なさったりはしませんでした。「神様は小さい罪と大きな罪とを分け隔てはなさらない」ということも覚えておいたほうがよいでしょう。神様の命じておられることを破るとき、私たちはいつでも大きな罪を犯しているのです。それがたとえ私たち自身にとってはどんなにとるに足りない些細なことに感じられたとしてもです。「地獄の火に投げ込まれるのが当然なのは人殺しだけではなく、他の人を馬鹿と言う者もそうである」とイエス様は教えてくださいました。神様の目には小さい罪も大きな罪です。そして、その逆ではありません。

聖書には私たちクリスチャンには直接かかわりがないことがらも確かにあります。かつて神様は旧約に属しイスラエルの民のみが従わなければならなかったいろいろな命令をお与えになりました。犠牲をささげることについての多くの規定はそのような命令であるし、「血を避けよ」という聖書の禁止命令も旧約の民に与えられた命令です。聖書自身「新約が結ばれた以上、これらの規定はもはや私たちにはかかわりがない」と言っています[4]。なぜなら、これらの規定には実はたったひとつの目的があるからです。それは人間を罪の呪いから解放して人間に義をもたらすことです。神様の御子が十字架で死んで、世界全体をその罪の呪いから解放し、皆のために義を備えてくださいました。それゆえ、モーセの律法の多くの規定にはもはや従う必要はなく、また従ってはいけないのです。それらに従うことはイエス様の死を侮蔑することです。なぜなら、それは自分自身の行いによって救いを得ようとする試みだからです。しかし、「救い」はイエス様が私たちにすでに確保してくださったのであり、救いを得るために私たちが何かを行うことなどまったくなしに、イエス様が私たちに賜物として与えたいと望まれているものです。

楽園で悪魔は人間が神様の御言葉を疑うように仕向けることに成功しました。悪魔は神様の明瞭な命令を迂回する言い訳を捏造し、人間が罪を行うようにさせました。同じように悪魔は今でも働きかけています。なぜ神様の御言葉のこれこれの箇所はまじめに受け取る必要がないか、悪魔は説明をひねりだします。聖書を軽んじたり、聖書が言っていることと異なることを行うように助言する「声」は悪魔の声です。たとえその声が教養があり理性的で愛に満ちているように感じられるものであったとしてもです。この問題の核心には「悪霊との戦い」があります。私たちは神様の聖霊様に聞き従っているでしょうか、それとも、悪魔の言うことを聞き入れてしまっているでしょうか。神様の霊は私たちを聖書に結び付けようと欲しています。それに対して、悪魔は私たちを聖書から引き離そうとします。 

命じられていることや禁じられていることが「すべて」聖書に基づいているわけではありません。人間が自分で作り出し、私たちがそれらに従うように強制してくる「言い伝え」が今もたくさんあります。もしも人間たちが作った命令が神様の御言葉と同じレヴェルに置かれ、それらに従うことを要求される場合には、神様の御言葉が侮蔑されていることになります。なぜなら、そのときには「人間の意見」が神様の御言葉と同等のものとみなされているからです。あなたが何かをやるように要求されたり、何かをやらないように禁じられたりするときには、聖書のどの箇所でこのように命じられているか、尋ねなさい。もしもそのような箇所が見つからない場合には、そのような命令に従う必要はありません。

神様の命令を破ることは危険です。それには3つの理由があります。
1)神様は聖なるお方です。神様の御言葉を無視することは神様の聖性を傷つけます。神様は長い間人間たちの愚かな行いを耐えてこられました。しかし、遅かれ早かれ神様はお怒りになります。神様の怒りはすでにこの世において人に個人的に向けられることもあれば、ある国民全体に向けられることもあります。しまいには、この世が終わり皆が神様の御前に立ち裁きが始まるときに、神様の怒りは神様の命令を侮蔑する者たちに向けられることになります。
2)神様の命令を破ることによって人は神様から引き離されていきます。罪が人の良心を汚し、やましい良心で生きている者は神様を避けるようになります。人間は神様の命令を破れば破るほど、それだけ遠く神様から離れていきます。それは人間に起こりうる最悪の事態です。なぜなら、本来人は神様と共に生きるために創られたからです。神様の命令を気にもかけない態度は神様から人間を最終的に隔離してしまいます。これが「滅び」と呼ばれるものです。
3)神様の命令は「命の律法」です。もしもそれらに従うならば、従わない場合よりもよりよくこの世で生きていくことができます。

神様の律法は「どうすれば正しく生きられるか」について語っています。それに加えて命令にはもうひとつの大切な使命があります。それらは「私たちがどのような存在であるか」をありのままに示す「鏡」のようなものです。「どのように私は生きるべきであるか」について聞くときに、「私は正しく生きているか」という難しい問題の前に立たされます。正直に自分とその生活を省みる人は誰でも、「自分が正しくは生きてこなかった」ことを認めるほかないでしょう。ある人はあるやり方で、またある人は他のやり方で、また各人が多くのやり方で神様の命令を破ってきたのです。神様はこうしたことを憎んでおられます。それゆえ、私たちは皆それぞれが神様の裁きを受けるのが当たり前の存在なのです。

「フィンランドには罪人が少ないね」と、日本で伝道していたある宣教師がフィンランドに帰ってきた折に言いました。これは「私たちフィンランド人はあまりにもよい人になったため、もはや罪人とは呼べない」という意味ではありません。その人が言いたかったのは「フィンランド人は自分自身を罪人とはみなしてはいない」ということです。その宣教師はフィンランド国内を伝道してまわったときに、人々が福音に対して驚くほどわずかしか興味を示さないことに気が付いたのでした。「この国では人々が自分の悪さを理解せず、それゆえ恵みも必要とは感じていないためだからだろう」とその人は結論しました。「フィンランドには罪人があまりにも少なく、それゆえ福音を求めている人もとても少ない」ことがどうしてか、私はわかるような気がします。神様の律法について宣べ伝えられることがあまりにも少なすぎるのです。あるいは、あたかも人は自分の力で神様の命令を完全に守ることができるかのような誤解を招く仕方で、神様の律法が宣べ伝えられているからです。律法の使命は、人を捕らえてその罪をあらわにし、その人も他のすべての人と同様に罪人であり滅びるのが当然であるような存在だということを明瞭に示すことです。そして、このことを理解した者は福音を渇望するようになります。

「神様の命令を宣べ伝えてはいけない。必要なのは「優しい福音」だけだ」と考えている人たちもいます。これは正しくありません!もしも神様の御言葉が私たちに正しい理解を教えてくれなければ、正しいことと間違っていることについて私たちの理解は前よりもいっそうあいまいになってしまいます。私たちは毎瞬間イエス様を必要としているのであり、とりわけこのことを理解するために、私たちは神様の命令が必要なのです。律法なしでは私たちは「自分がその生き方によって神様を喜ばせることができるほどよい人である」かのように思い込むようになります。しかし、このような思い込みのすぐそばに滅びが待ち受けているのです。律法はこの思い込みをなぎ倒し、私たちについての真実の状態、私たち自身の悪さ、を明らかにします。そして、私たちが自分の罪の赦しを願い求めまたそれをいただくように、私たちをイエス様のみもとに追いやります。

律法は必要です。しかし、律法は誰も救いません。なぜなら、神様に受け入れていただけるほど「十分に」神様の律法を完全に実行できる人は誰もいないからです。それでは、何が救ってくれるのでしょうか。それは「福音」です。神様の福音はイエス様と十字架についてのメッセージです。神様の御子は裁きを受けました。それゆえ私たちは裁かれません。イエス様は御自分を犠牲としてささげられました。それゆえ私たちはそのすべての罪を神様から赦していただきました。イエス様は神様の律法をはじめからおわりまで完全に実行なさいました。このゆえに神様は「イエス様に避けどころを求める者」を御自分にふさわしい者とみなしてくださいます。彼らは自分たちの生き方に基づくならば神様に対してふさわしい者などではありえないのにです。イエス様は私たちに御自分の死によって神様の恵みを確保してくださいました。それが私たちの守りとなり、私たちは聖なる神様の御前で耐え切ることができるのです。神様の恵みは「キリストのもの」である者にとって守りなのです。「キリストのもの」というのは、キリストに所属するものとなるべく洗礼を授けられ、キリストを信じている人のことです。救いは「賜物」です。私たちはそれを何かの「報酬」として受け取ることはできないしその必要もありません。その賜物は、それを受け入れたい人なら誰でもただでいただけるものです。「人がどんな存在であり、人は何を行うことができるか」ということとはまったく関係なしにです。自分が罪人であり裁きを受けるのが当然であることを理解した者は、罪の呪いから解放してくださったお方についての福音を受け入れます。律法は、それがどのように宣べ伝えられようとも、イエス様への信仰を生み出したりはしません。それを可能にするのは福音のみです。私たちは信仰を通して救われますが、その信仰を強めてくれるのは、律法ではなく福音です。

私はどこから神様の御意思を満たす力を得るのでしょうか。「どのように生きるべきか」について正確に厳しく知らされても、私にはそんな元気は出ません。力を与えてくれるのは福音です。すなわち、「どれほどたくさん神様は私を愛してくださったか、また愛してくださっているか」、ちゃんと私は知っているということです。神様から賜物として永遠の命をいただく人は、神様に感謝するものです。神様に感謝するということは、生活の中で神様の御心を実現することです。福音から、すなわち「神様の恵みのみによって私は救われる」ということから、私は「神様の御心に適う生き方をしたい」という力と意志とをいただきます。私に対して信じられないほどよいお方、「私の御父様」に対して私は忠実でありたいです。それと同時に、「私たちは決して完全になることなどはありえないこと、また完全に近づくことすらありえないこと」を心に刻んでおく必要があります。

信仰が生活を「制限」するのは確かです。クリスチャンとして生きることは「神様を畏れること」です。神様を畏れることは「私が神様に完全に依存している」こと、すなわち「私の命は神様が私に何を与えてくださるか、神様は私に対して憐れみ深いだろうか、によって完全に左右されている」ということを理解することです。それゆえ私は神様を怒らせたいなどとは夢にも思いません。もしも私が神様を怒らせて悔い改めないままでいるならば、神様は私を認めたりはなさらないでしょう。そして私にはありとあらゆる悪いことが起こるでしょう。神様は御自分の御言葉が無視されることを憎んでおられます。それゆえ私には神様の御意志を無視して生きていくような真似はとてもできません。そんなことをすれば聖なる神様を怒らせることになるし、それを私は恐れているからです。このように信仰は私たちの生き方に制限を与えます。私は自分が生きたい放題の生き方をすることはできません。しかし、神様の命令が定めている限界は「よい限界」なのです。それらは命を守っています。もしもそれらに従うなら、多くの悪を避けることができます。  



[1] 原語では「アーメン」。
[2] 原語では「イオータ」(ギリシア語の小さなアルファベット。英語のiに相当)。
[3] 原語の意味はアルファベットに付けられる「小さな飾りの記号」。たとえばイオータ・スブスクリプトゥム(ある種の長母音のアルファベットの下にくっついている非常に小さなイオータ記号のこと)。
[4] たとえばヘブライの信徒への手紙10章。

2008年2月4日月曜日

信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?

ヤリ・ランキネン

信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?


子供たちに信仰について長年教えてきた私のある友人はこう言いました、「子供の心はイエス様の種まきのたとえ(マタイによる福音書13章)にでてくる「よい土地」と同じようなものです」。子供は心を開いており、教えられたことを素直に受け入れます。人は成長すると、心を閉じ、信仰の事柄を受け入れるのは、はるかに難しくなります。もちろん、神様に不可能なことは何もありませんが、こうした理由から、まさしく子供たちに神様について話すのは、本当に大切なことなのです。

子供の頃聖書の教えを心に蒔いてもらった人たちの多くは、たとえ大人になってから他の道に迷い込んでしまった場合でも、やがてそれらが間違っていることに気が付いて、信仰の道へと戻ってくることがしばしばあります。もっとも、その人の両親は自分の子供の悔い改めを見ることもなく、子供が不信仰の生活を送っていることを悲しみつつ、先に死んでしまうかもしれませんが。信仰者の家庭に育った子供たちは、信仰の中に活きます。彼らは、信仰の中に生活していない場合でも、「自分のしていることは間違っている」というやましい良心をもっており、何が正しいか実は知っている自分の良心にいつまでも逆らい続けることはできないものです。こういうわけですから、私たちも子供たちに信仰について熱心に教えようではありませんか。

現代の子供たちは、他のいろいろなことをたくさん学んでしまいます。たとえば、信仰の事柄は脇へ追いやられるか、禁じられます。子供の心は何か他のものでいっぱいになったりします。あるいは、信仰の事柄が作り話や他の宗教とごちゃ混ぜになったりします。とりわけテレビやインターネットなどのメディアが、子供にこのようなことを教えます。


「教える」とは、どのようなことですか?

私たちは子供を教会に連れて行ったり、子供と一緒に夜のお祈りをしたり、子供にときどき神様について話したりします。これらのことは、確かに大切ですが、まだ「教える」ことではありません。もしも子供に算数を教えるならば、子供の脇に座って、子供と一緒に問題を解きます。これと同じように信仰についても教えるべきです。時間を用意し、子供の脇に座り、子供と一緒に神様について話し、子供が理解したかどうか、質問します。

私たちは、息子ユホが学校に通うようになる前に、「十戒と使徒信条と主の祈りを学び覚えることにしよう」とユホと一緒に決めました。私たちは春と夏、何回にも渡って、一緒に座り、これらの事柄を学びました。私はひとつひとつ声に出して言い、息子はそれを繰り返して、暗唱しました。そしてそれから、今学んだことはどういう意味か、話し合いました。このようにして私たちは一緒に、信仰についてさまざまなたくさんのことを考えることができました。息子は注意深く聞き、また質問しました。息子は学び理解したと、私は信じています。息子はまた、父親である私に大切なことを教えてくれることがありました。私たちが第六戒(「あなたは姦淫してはならない」)を学んでいるとき、その命令がどのような意味か息子に尋ねたところ、ユホは少し考えてこう答えました、「もしも結婚して、結婚相手に気に入らないところがあるとわかっても、相手を捨ててはいけない、という意味でしょう」。信仰の大切な事柄を自分の子供に、たとえばこんな風にして、教えてみたらどうですか?少なくとも、たっぷり時間の余裕をとって子供と一緒に信仰について話し合ってください。こうすることで、信仰の事柄が子供にとって、他のことと同様、自然なことになります。


楽しいひととき

フィンランドでは戦時中にこういうことがありました。何人かの従軍牧師たちは、戦地で御言葉と祈りの集いが開かれている間、その場にいる兵士たちが配給のタバコを楽しむことができるよう願い出て、許可されました。そこには深い知恵がありました。私たち両親もそれと似たような次のことをしました。
私たちは、礼拝で説教が始まるときに、息子たちの手にお菓子の箱を渡しました。信仰について説教されている時について「楽しいひとときだった」という思い出が残るのは、大切です。こうすることで、御言葉が心に入りやすくなります。しかし、もしも説教を聞いているときに、苦しい圧迫されるような印象が子供に残るようだったら、逆効果です。

大き目の子供たちが御言葉の説教を聞くように強制することはできません。でも、聞くひとときが楽しくなるように工夫することはできます。お菓子などの手段を少しぐらい使ってもかまわないと思います。どんな理由から御言葉の説教を聞くことになるにせよ、神様の御言葉は子供や大人の心の中で働いてくださいます。


夜の聖書とお祈り

あなた方の家では夜の聖書とお祈りのひとときをもっていますか?それは別段手の込んだものである必要はありません。たとえば、居間か子供部屋で聖書か子供聖書かお祈りの本を読み、主の祈りを一緒にお祈りして、賛美歌を歌います。これらのひとときを通して、イエス様が言われるあの「よい種」が蒔かれるのです。御言葉を子供がちゃんと聞いているかどうか、おぼつかない場合でも、これは同じです。そして、この蒔かれた御言葉の種は、時が来れば芽を出します。夜の聖書とお祈りのひとときには、信仰やその日の出来事についても話し合うことができるように、時間を用意しておきましょう。また、今読んだ聖書の箇所について質問してみましょう。子供たちからしばしば驚くようなすばらしい答えが返ってきますよ。


何を教えるべきなのでしょうか?

子供は正直ですし、また相手からも正直であることを要求します。すでに教えたことをないがしろにしてはいけません。もしもそうするなら、「信仰についての話はすべてうそだったのか」と、子供は心の中で疑うようになります。「滅び」が存在することを教えた後で、「誰でも皆天国に行ける」と、子供に言ってはいけません。まさにこのことについて正直であるのは難しいものです。私が言いたいのは、イエス様とはまるで関係がないように生活していた隣人が死んだとき、「あの人は間違いなく滅びに落ちた」と子供に言わなければならない、ということではありません。「正直である」ということは、「あの人がどうなったかは、私たちにはわからない。あの人のことは神様の御手にゆだねよう。神様はあの人を、御自分がよいと思われるように裁かれるだろう。しかし、私たちはイエス様を信じている。だから、絶対に天国にいける」と子供に言うことです。

子供にも律法と福音を教えるべきです。神様の御命令がなんと言っているか、子供に語りなさい。罪を憎まれる聖なるお方、偉大なる神様について話しなさい。「イエス様は私たちのために死んでくださった。すべての罪は赦されている。イエス様の死のおかげで、私はそのままで神様に認め受け入れていただける」ということを語りなさい。私たちを愛し、憐れみ、天の家へと導いてくださる神様について、子供に話しなさい。


神様に話しなさい。

ある友人は私にこう言いました、「私の父は家にいることがほとんどなくて、この信仰を私に教えてくれる暇がありませんでした。でも、父が旅行中私のためにたくさん祈ってくれていたことを、私は知っています。私が今信じているのも、父の祈りの影響が大いにあると信じています」。もしもあなたがなんらかの理由で神様について子供たちに話せないときには、子供たちについて神様に話しなさい。それにも奇跡のような効果があります。