2019年3月27日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章1〜6節 終末は近い(その5)

 4章1〜6節 終末は近い(その5)

ペテロの手紙のこの箇所を聖書の他の箇所の「罪の一覧表」と比較すると、
興味深いことが見えてきます。
たとえば、
「コリントの信徒への第一の手紙」6章9〜11節、
「ガラテアの信徒への手紙」5章19〜21節、
「ローマの信徒への手紙」13章13〜14節などの一覧表では、
キリスト信仰者がはっきり関係を断ち切るべき罪が
それぞれほぼ同じかたちで列挙されています。

ここで私たちは次のふたつのことを覚えておくべきです。

第一のポイントは
「すべての罪は人を滅ぼすものであり、
悪い考えもその点では凄惨な殺人と同様である」ということです。
なぜなら、
神様は聖なるお方であり、
その御前ではいかなる罪もその存在を許されないからです。
このように、
私たちは誰もが皆、例外なくキリストを必要としているのです。

その一方では、
第二のポイントとして
「教会の初期のキリスト信仰者たちが関係を断ち切るように奨励された
特定の事柄も存在する」ということです。
たとえば、偶像礼拝がそのひとつです。
また、結婚前の性交渉やすべての不倫もそうですし、
酒乱、吝嗇やそのほか広い意味での偶像礼拝もそれに含まれます。

これらの罪については、
私たちは現代においても同じように警告を発し続けるべきです。
約二千年前に神様の御心に適わなかった事柄は、
現在もまた適うものではないからです。
また、
神様の御前で私たちはいつか必ずこの世での自らの歩みについて
申し開きをしなければならなくなるのです。

2019年3月20日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章1〜6節 終末は近い(その4)

「ペテロの第一の手紙」第4章 

4章1〜6節 終末は近い(その4)

ペテロの手紙が読者に提示するメッセージは、
人によっては慰めにもなるだろうし、
あるいは中傷と受け取られてもしかたがないものでもあるでしょう。

というのは
「キリストを信じるようになる前の手紙の受け取り手たちは
神様をないがしろにするよくない生き方をしていた」
とペテロは臆することなく言い切っているからです。
異邦人としての生活習慣について、ペテロはいささかも褒めようとはしません。
それどころか、それを容赦なく断罪しています。
このような態度は当時も今もこの手紙の読者の感情を害するものかもしれません。

しかしその一方で、
キリスト信仰者になった今ではもう思い出したくもないような
過去を持つ人々にとっては、
このペテロのメッセージは慰めを与えるものではないでしょうか。

この点に関しては
「教会誕生初期のキリスト信仰者のほうが
現代のキリスト信仰者よりも良好な状態にいた」
とは到底言えません。
むしろ「昔の方が今よりもはるかに悪い状態であった」とさえ言えるでしょう。

2019年3月13日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章1〜6節 終末は近い(その3)

「ペテロの第一の手紙」第4章 

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章1〜6節 終末は近い(その3)

この箇所には、その簡潔さの中に多くの重要な事柄が含まれています。

これまでも見てきたように、
この手紙は苦しみを受けているキリスト信仰者たちに向けて書かれたものです。
例えば「ヘブライの信徒への手紙」は、
その受け取り手たちがキリスト教信仰を今にも捨てようとしている
切迫した状況を念頭に置いて書かれていると思われます。
しかし、このペテロの手紙から伝わって来る雰囲気はそれとは異なっています。

それにもかかわらず、この手紙で与えられている奨励には
私たちが真剣に受けとめていくべき重要事項が含まれています。
それは「キリスト教信仰はそれを信じる者たちを大きく変えて、
周囲にいる未信者とは異なる生き方へと導くものである」ということです。
ただしその結果として、
彼らは信仰のゆえにこの世で様々な苦しみを受けるようにもなります。

私たちもまた、
このような変化が自分の生活においても生じているかどうか、
自らに問うてみることにしましょう。
もしも何の変化も起きていないようであれば、
この聖書の箇所の内容をもっと正確に捉えることができるように
学び直す必要がありそうです。

ふとしたことをきっかけに突然キリスト教を信じるようになった人ならば、
それまでの自分の友人たちがこの変化について
どのようなことを考え、言い、行うか、実際に体験して知っていることでしょう。

2019年3月6日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章1〜6節 終末は近い(その2)

「ペテロの第一の手紙」第4章

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章1〜6節 終末は近い(その2)

「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、
彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、
霊においては神に従って生きるようになるためである」
(「ペテロの第一の手紙」4章6節、口語訳)。

新約聖書全体を見渡してみても、
この6節はその意味を理解するのが最も難しい箇所のひとつといえるでしょう。
そのせいもあって、極論を振りかざす人々もでてきます。
例えば「この世でキリストについて聞く機会のなかった人々には、
死んだ後でもう一度チャンスが与えられる」という解釈も提案されています。
しかし、このような説明は拙速にすぎます。
「死者」は実に多様な意味で使用されうる言葉です。
それは「霊的に死んでいる人々」のことを指すこともあるし、
3章19〜20節にあるように
「ノアの同時代人たち」のことを指す言葉でもあります。
あるいはまた
「キリストがこの世にお生まれになる以前に生きていたユダヤ人や異邦人」
のことを指しているとも理解することができます。
この節は「生前に福音を聴いてキリスト信仰者になってから死んだ人々」
のことを意味している、というのも説得力のある解釈でしょう。

「キリスト教信仰の信条は、意味に曖昧さが残る箇所ではなく
明確に説明できる聖書の箇所に基づくものでなければならない」
というのが古くから遵守されてきたルター派の基本的な考え方です。

この6節に関しても、あれこれ想像をめぐらすことはひとまずおいて、
むしろ、人間の理解をはるかに超える大いなる神様の御前にひれ伏す
信仰者としての姿勢を保つことこそが、
私たちにふさわしい態度なのではないでしょうか。