2019年5月29日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 5章6〜11節 謙虚に、油断せずに生活しなさい(その1)

5章6〜11節 謙虚に、油断せずに生活しなさい(その1)

この手紙を閉じるにあたり、ペテロは心に突き刺さるイメージを用います。

「身を慎み、目をさましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、
食いつくすべきものを求めて歩き回っている」
(5章8節、口語訳)。

ライオン(「しし」)は怠惰な動物で、
普段は陽の当たるところで横になって休んでいます。
そして、約二日に一回ほど動き出しては、雄叫びをあげます。
ライオンが活動を再開する理由は単純です。
それはひどい空腹です。

ふたたびこの箇所で、ペテロは手紙の受け取り手たちに
試練と苦しみに関して覚えておくべき事柄を記しています。

キリスト信仰者たちはこの世のいたるところで同じ苦境に立たされています。
それはたしかです。

しかし一方で、
それは時間的にわずか一瞬の短い出来事にすぎません。
必ずいつかは試練の時期が過ぎ去り、
神様の御国に到着することになるのです。

2019年5月22日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち(その4)

「ペテロの第一の手紙」第5章 

5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち(その4)

他の多くの箇所と同じように、
この箇所においてもペテロの言葉は優しさに満ちています。
しかし、そこで取り扱われている内容自体は非常に深刻なものです。
私たちは自分の属する小さなグループの活動を
続けることだけを目的として教会に通っているのではありません。
大祭司イエス様がこの世に再臨なさる時がいつかは必ず訪れます。
そしてその時には、すべての人間は神様に対して
自分自身について申し開きをしなければならなくなります。
次に引用する「コリントの信徒への第一の手紙」3章は、
これと同じ内容をよりいっそう鋭利な表現によって説明しています。

「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、
土台をすえた。
そして他の人がその上に家を建てるのである。
しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、
だれにもできない。
そして、この土台はイエス・キリストである。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて
建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。
すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、
またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。
しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、
救われるであろう」
(「コリントの信徒への第一の手紙」3章10〜15節、口語訳)。

このように、
それぞれの教会は実際にはどのような要素から構成されてきたのかを、
最後の裁きの時の火が吟味することになります。
どうかこの視点が牧師だけにではなく教会全体にとって
有益な謙虚さを教えるものとなりますように。

2019年5月13日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち(その3)

「ペテロの第一の手紙」第5章 

5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち(その3)
  
現代の世界には、旧約の意味での祭司はもう存在していません。
しかしその一方で、私たちキリスト信仰者は皆「万人祭司」となっています。
そしてさらに
「万人祭司」とは明確に区別される「牧師」という職制が別にあります。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。
聖徒たちのすべての教会で行われているように、
婦人たちは教会では黙っていなければならない。
彼らは語ることが許されていない。
だから、律法も命じているように、服従すべきである。
もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。
教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。
それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。
あるいは、あなたがただけにきたのか。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜36節)

この箇所に基づいて
「キリスト教会における牧師の職制は男性にのみ属するものである」
と私たちは教えます。
どうしてそうなのか、私たちは知りません。
また、その理由を詮索するのは私たち人間のやるべきことでもありません。

この箇所には、牧師の職務に関する素晴らしい指示が
幾つかの短い言葉で与えられています。
宗教改革者マルティン・ルターはそれを説明する際に
「牧師になることは誰にも押し付けるべきことではない」
ということを強調しました。
これは正しい態度であるといえます。
牧師の仕事はとても大変なので、
牧師になるにせよ、ならないにせよ、
その選択は誰からも強制されずに自ら行うべきことだからです。
「給料がもらえる」という理由で牧師の仕事に就くことがあってはなりません。
また、牧師には
「他の人々を上から支配したい」という権力欲が出ることがあります。
それに対してこの箇所の御言葉は
「そのようなことがあってはならない」と明確に教えています。

2019年5月8日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち(その2)

 「ペテロの第一の手紙」第5章 

5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち(その2)

現代人は一般的に権威を嫌う傾向があります。
彼らは指導者の教えに気に入らない点があると、
その指導者の率いるグループの一員にはなりたがりません。
ですから、
現代のキリスト教信徒の多くが教会の職制について拒絶反応を示すのは、
とりたてて不思議なことではありません。

「聖書が教えているのは教会の職制についてではなく、
個々の多様な職務についてだけである。
そして、それらの職務を果たすのは、
その任を委ねられた人ならば誰であろうとかまわない」
といった主張をする人も大勢います。

しかしながら「ペテロの第一の手紙」のこの箇所に加えて、
とりわけ「使徒言行録」20章は、
聖霊様が教会の責任を委ねるために
「ある特定の人々」を教会の職に任命することを明確に教えています。

このことからわかるように、
たとえば「教会に説教職を設定なさったのは神様御自身である」
と教える「ルーテル教会信条集」(ルター派の教義をまとめた書物)は、
この問題に関しても聖書に明記されていることがらに忠実なのです。

「旧約聖書の「祭司」と新約聖書の「牧師」との間には
どのような相違点があるのか」という問題が注目を浴びるのはきわめて稀です。

旧約の世界における祭司は、祭壇に犠牲を捧げる役目を務めました。
イエス・キリストは大祭司であり、
御自身を唯一の犠牲として捧げることによって
他のすべての犠牲の捧げ物を不要なものとなさいました。
このことに基づいて成立した新約の世界にはもはや旧約の祭司は存在しません。
新約の世界に残されたのは、
キリスト信仰者全員に共通する「万人祭司」としての使命です
(「ペテロの第一の手紙」2章9節)。
すなわち、キリスト信仰者は皆、
神様の大いなる御業を宣べ伝えるために「祭司」として選び分かたれている、
ということです。

旧約の犠牲を捧げる祭司職はすでに消滅しています。
しかしその一方で、
神様はキリスト教会に牧者すなわち牧師の職制を定めてくださいました。
新約聖書ではこの職制を
「監督」や「長老」など様々な用語によって説明しています。
以下に例をあげます。

「さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、
自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、
よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、
人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、
子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。
自分の家を治めることも心得ていない人が、
どうして神の教会を預かることができようか。
彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。
そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。
さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。
そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう」
(「テモテへの第一の手紙」3章2〜7節、口語訳)。

「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、
ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、
ならびに監督たちと執事たちへ」
(「フィリピの信徒への手紙」1章1節、口語訳)。

「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。
その人は、教会の長老たちを招き、
主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい」
(「ヤコブの手紙」5章14節、口語訳)。