2014年5月30日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章1節 アブラハムが見つけたもの(その1)


アブラハムが見つけたもの 41節(その1)
  
 
この節は、
「私たちの民の始祖であるアブラハムは何を見つけたのか、
と私たちは言えるでしょうか」、
と訳すのがより正しいでしょう。

パウロはこの質問を投げかけて、
すぐにはそれに答えようとはしません。
当時のユダヤ人の説教者たちは、
しばしばこのようなスタイルで教えました。

現代人である私たちは、
パウロが言わんとすることを汲み取れるでしょうか。
果たして私たちは、聖書を十分に知っているのでしょうか。
アブラハムは何を見つけたと言うのでしょう。

正解は「創世記」183節にあります。
それを文字通りに訳すと、
わが主よ、もし私があなたの御目に恵みを得ているなら、
どうか、あなたの僕[1]を通り過ごさないでください」、
となります。
これは古代のギリシア語七十人訳旧約聖書でも同じです。

アブラハムは恵みを見つけました。
こうして彼は、キリストの十字架に依り頼む人々皆にとって、
信仰の父となったのです。
この話題に、パウロは4章全部を費やします。



[1] アブラハムのこと。訳者注。

2014年5月28日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章 どうしてアブラハムが出てくるのでしょうか?


「ローマの信徒への手紙」4

どうしてアブラハムが出てくるのでしょうか?


最初の1章から3章までで、パウロは福音の核心を紹介しました。
すなわち、人は皆、罪深い存在だが、
イエス様を信じる時にその罪が赦される、ということです。
今彼は、アブラハムについて語ることを通して、福音の説明を続けます。
それにしても、どうしてアブラハムなのでしょうか。

ユダヤ人にとって、アブラハムはずっと特別な存在でしたし、
それは今でも変わりません。
彼はユダヤ民族全員の父祖だからです。
神様はアブラハムに対して現れて、彼に関わる約束をお与えになりました。
このことをおさらいするためには、
「創世記」の12章から25章までを読み直してみるとよいでしょう。
そこでは、どうしてユダヤ人が皆、
自らを「アブラハムの子孫」と呼んでいるかが、
はっきりとわかります。

神様との契約の証印として、アブラハムは割礼を受けました。
この出来事以来、彼の子孫は皆、
この割礼という慣習に従ってきたのです。

しかし,パウロによれば、
神様の御前で人が救われることは、
落ち度のない立派な生き方をしてきた結果としての報酬ではなく、
罪の赦しを信じることにのみ基づいていることを、
すでにアブラハムは知っていました。

このように、使徒パウロは、
ここでアブラハムについて語ることを通して、
ユダヤ人全員を一網打尽にしようとしているのです。
すなわち、
旧約聖書全体にわたる聖徒の一群もまた、
アブラハムと共に、
キリストに属する人々の仲間入りをすることになるわけです。


今回取り上げる箇所は、
多くの意味で非常に理解が困難なものに見えます。
それでも、あきらめないで学ぶべき理由があるのです。
この箇所は、
旧約聖書のモーセの律法の定める食事や犠牲を捧げることに
関わる規定に従わなくてよい、という根拠を、
私たちキリスト信仰者に与えるのものだからです。

2014年5月26日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(3章) 


終わりのメッセージ 

「この世のすべての罪深い人たちに」

この世の罪深い人たちに、今、次のような言葉が響き渡っています、
「さあ来なさい。
すべてはすっかり用意が整っていますから。
天のお父様は、その愛する御子を死に渡されました。
御子はあがないのみわざを成し遂げられました。
御子は、 全世界の罪を帳消しにするための生け贄として、
十字架でその血と命とを捧げてくださいました。
御子は死と地獄と悪魔とに勝利なさいました。
そして、栄光に包まれて復活なさり、
私たちのために永遠の命、義、天の御国における不死の命を
準備してくださったのです」。
これが、短くまとめられた福音の教えの内容です。

福音の本質は、律法のそれとはまったく異なっています。
律法は、脅かし、怖がらせ、行いと報酬を要求します。
ところが、
どうしようもなく罪深いが、キリストを受け入れ、
キリストの御名を信じている者たち皆に対して、
福音は、キリストのゆえに、
何の見返りを要求せずに、
喜ばしき救いの宝をまるごと約束し、
また、実際にそれをプレゼントしてくれるのです。


F. G. Hedberg

2014年5月23日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第3回目の質問


3回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」3


最初の1章と2章で、パウロは、
異邦人もユダヤ人も神様の御前では罪深い存在であることを示しました。
この3章で、彼は福音を紹介します。
人は皆、神様の御前では罪深い存在です。
しかし、一方で、
人は皆、イエス•キリストにおいて罪の赦しをいただけるのです。

1)パウロは、38節で、
「結局、神は罪を赦すし、罪を善用することもある」、
などと考えて罪を行うことがあってはならない、
と警告しています。
あなたは、今までこのように自分に言い聞かせて、
悪いことを行う誘惑に駆られたことがありませんか。
このことに関して、具体的にはどうするべきなのでしょうか。

2)パウロは、まず厳しい話をし、
すべての人が罪深い存在であることを示しました。
その後ようやく、罪を帳消しにする方法について話し始めます。
それにしても、
どうして人は自分が厳しく裁かれる話を聞くのが難しいのでしょうか。
そのような話は、今よりさらにもっと必要なものでしょうか、
それともあまり必要がないのでしょうか。
私たちは、厳しい裁きの言葉から素早く身を隠す際に、
神様がイエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださる、
という約束(福音)からも耳を塞いでしまうことになりはしませんか。


3)神様の義にあずかれるのは誰ですか。
この3章によれば、それは誰に与えられるものなのでしょうか。