2020年2月28日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 苦しむ者の受ける圧迫 「詩篇」102篇1〜12節(その1)

苦しむ者の受ける圧迫 「詩篇」102篇1〜12節(その1)

この「詩篇」を
「個人の受ける苦しみと圧迫」という第一の視点から調べていく場合、
旧約聖書の読者の多くは「ヨブ記」のことを想起するのではないでしょうか。
詩篇朗唱者は苦難を前にして慰めを見失った状態に落ち込んでいます。
彼を圧迫するものが何であり、なぜ彼は圧迫を受けているのかについては
語られていません。
神様は怒りを示され、詩人を地へたたきつけたのです。
とはいえ、
本文には個人の罪についての言及は特に見当たりません。

これに対し、
第二の視点は本文の意味内容について無理のない説明を提供してくれます。
それによると、
この「詩篇」には捕囚の只中で嘆き悲しむ神様の民が描かれています。
エルサレムがまだ安泰で、油注がれた王が国を支配し、
主の神殿でまことの唯一の神様に犠牲を捧げていた時代は
すでに遠い過去のことになりました。
にもかかわらず、
異国の地で捕囚の身となった主の民は、
崩れ落ちたエルサレムの城壁のことを
今もなおしっかり記憶に刻みつけていました。
また、
主の民は敵からの蔑みを受けながらも、 
エルサレムの神殿の惨憺たる状態を決して忘れることがありませんでした。
神様の怒りは依然として民の上にとどまりつづけていました。
旧約聖書をよく読んでいる人ならば、
預言者エレミヤとエゼキエルが発した厳しい警告の数々が
御言葉を聞く耳を持たない民に対して虚ろに響いたことを
ここで思い起こすのではないでしょうか。
民全体が捕囚の身となっている今の惨状は、
預言者たちの警告してきた最悪の事態が
現実になってしまったことを証ししています。

第三の視点として、
旧約聖書をキリストに基づいて読む立場から本文を解釈することにしましょう。
宗教改革者マルティン・ルターによれば、
旧約における主の民は、
捕囚からの解放と、
キリストにおいてその実現が約束された恵みの王国の到来についての記述を
旧約聖書における契約のうちに見出し、
それを待ち望んでいました。
このルターの指摘は鋭いと思います。
律法と罪と死は当時の神様の民にとっても辛すぎる重荷となっていました。
それゆえに、
義と認められた者がそこに住むことになるという約束の地である神様の御国が
いつか必ず到来することを彼らもまた待ち望んでいたのです。

2020年2月21日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「詩篇」102篇

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

「詩篇」102篇

102:1
苦しむ者が思いくずおれてその嘆きを主のみ前に注ぎ出すときの祈

102:2
主よ、わたしの祈をお聞きください。
わたしの叫びをみ前に至らせてください。

102:3
わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、
あなたの耳をわたしに傾け、
わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。

102:4
わたしの日は煙のように消え、
わたしの骨は炉のように燃えるからです。

102:5
わたしの心は草のように撃たれて、しおれました。
わたしはパンを食べることを忘れました。

102:6
わが嘆きの声によって
わたしの骨はわたしの肉に着きます。

102:7
わたしは荒野のはげたかのごとく、
荒れた跡のふくろうのようです。

102:8
わたしは眠らずに
屋根にひとりいるすずめのようです。

102:9
わたしの敵はひねもす、わたしをそしり、
わたしをあざける者はわが名によってのろいます。

102:10
わたしは灰をパンのように食べ、
わたしの飲み物に涙を交えました。

102:11
これはあなたの憤りと怒りのゆえです。
あなたはわたしをもたげて投げすてられました。

102:12
わたしのよわいは夕暮の日影のようです。
わたしは草のようにしおれました。

102:13
しかし主よ、あなたはとこしえにみくらに座し、
そのみ名はよろず代に及びます。

102:14
あなたは立ってシオンをあわれまれるでしょう。
これはシオンを恵まれる時であり、
定まった時が来たからです。

102:15
あなたのしもべはシオンの石をも喜び、
そのちりをさえあわれむのです。

102:16
もろもろの国民は主のみ名を恐れ、
地のもろもろの王はあなたの栄光を恐れるでしょう。

102:17
主はシオンを築き、
その栄光をもって現れ、

102:18
乏しい者の祈をかえりみ、
彼らの願いをかろしめられないからです。

102:19
きたるべき代のために、この事を書きしるしましょう。
そうすれば新しく造られる民は、
主をほめたたえるでしょう。

102:20
主はその聖なる高き所から見おろし、
天から地を見られた。

102:21
これは捕われ人の嘆きを聞き、
死に定められた者を解き放ち、

102:22
人々がシオンで主のみ名をあらわし、
エルサレムでその誉をあらわすためです。

102:23
その時もろもろの民、もろもろの国は
ともに集まって、主に仕えるでしょう。

102:24
主はわたしの力を中途でくじき、
わたしのよわいを短くされました。

102:25
わたしは言いました、「わが神よ、
どうか、わたしのよわいの半ばで
わたしを取り去らないでください。
あなたのよわいはよろず代に及びます」と。

102:26
あなたはいにしえ、地の基をすえられました。
天もまたあなたのみ手のわざです。

102:27
これらは滅びるでしょう。
しかしあなたは長らえられます。
これらはみな衣のように古びるでしょう。
あなたがこれらを上着のように替えられると、
これらは過ぎ去ります。

102:28
しかしあなたは変ることなく、
あなたのよわいは終ることがありません。

102:29
あなたのしもべの子らは安らかに住み、
その子孫はあなたの前に堅く立てられるでしょう。

(口語訳)


「詩篇」102篇は伝統的に「ざんげの詩篇」と呼ばれています。
この「詩篇」は、
一方では個人の受けた説明しがたい苦しみについて語り、
他方では神様の民の苦しみについて語っています。
後者の視点からすると、
この「詩篇」を「ざんげの詩篇」の一篇ととらえることができます。
旧約聖書をキリストに基づいて読む第三の視点によれば、
この「詩篇」には、
キリストにおいて実現する神様の御国を希求する心が表現されています。

2020年2月14日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 民の祈り 「詩篇」51篇20〜21節

民の祈り 「詩篇」51篇20〜21節

すでに解説したように、
この箇所は歴史的な状況に関連している可能性があります。
もうひとつの可能な解釈は
「動物犠牲を捧げる世俗化した宗教儀式が本来のありかたに立ち戻るように
この詩篇朗唱者は祈っている」というものです。
しかし、第一の解釈のほうがより事実に近いと思われるので、
以後それに基づいて説明をしていくことにします。

この「詩篇」で個人について語られていることがらは
民全体にもあてはまるものです。
個人だけではなく神様の民全体が自らの罪によって神様の怒りを招き、
その罪に見合う罰を受けることになりました。
個人の生活における罪を弁護することができないのと同じように、
この民全体の罪の場合も神様に対して正当化することができません。
また、すでに行ってしまった罪をなかったことにして
帳消しにできる人もいません。

罪深い民に残された唯一の安全な生き方は、
神様の絶えざる憐れみに、
また神様の契約への忠実さに
避けどころを求めることです。

現実の歴史ではどのようなことが起きたのでしょうか。

神様はペルシア王キュロスを召して、
それまで君臨していたバビロニア帝国を滅亡させました。
このようなやり方で神様は、
かつて神様の民を打ちのめした敵どもを
今度は他の勢力によって弱体化させ、
捕囚の状態にいた諸国民を解放なさったのです。
それらの解放された民の中には
かつてのエルサレムの住民たちも含まれていました。
キュロス王の勅令に従い、彼らもまた故郷エルサレムに帰還しました。
そして城壁を建設し、神殿をふたたび本来の「神殿」として聖別しました。
そして、この民の中から、
その到来がかつて約束されていたキリストが
罪人の贖い主」として後に生まれることになります。

2020年2月10日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様の守りの中に逃げ込む 「詩篇」51篇8〜19節(その2)

 「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様の守りの中に逃げ込む 「詩篇」51篇8〜19節(その2)

罪を憎まれる神聖なる神様の怒りを鎮める方法を、
罪深い存在である人間自身はもっていません。

旧約の世界にあるような、
動物を犠牲として屠ることで神様の怒りを鎮めようとする宗教的儀式は
現代の世界でも形を変えて存続しています。
ある人はお金によって、
ある人は服装を変えることによって、
ある人は言葉づかいに気をつけることによって、
またある人は慎み深い生活をすることによって
神様の好意を得ようとします。

しかし、このようなやりかたによっては何の助けも得られません。
それどころか、
それらの試みはいっそうひどく神様を侮蔑する行いになるばかりなのです。
深く惨めな私たちを助けてくれるのはひとえに神様の恵みのみです。

「新約の民」すなわちキリスト信仰者である私たちは
この恵みと出会える「場所」が
キリストの十字架の血のほかにはないことを知っています。

また、この「詩篇」からは
「できることなら罪から自由な清い存在でありたい」
という心からの詩人の叫びが伝わってきます。
彼は罪の赦しを願い求めるだけではなく、
新たな清い心と生き方とを神様に祈り求めています。

ここに私たちは
キリスト教信仰の基本にかかわることがらを確認することができます。
すなわち、
恵みの意味を理解した者にとって
罪の赦しは慎みのない罪深い生き方を追認するものではない
ということです。

「恵みの子」は自らの弱さを嘆き悲しみながらも
今よりも善い者であろうと欲するものです。
しかし、
自らの力に頼るかぎりそれは決して実現しません。
だからこそ
「恵みの子」は神様に助けを願い求めるのです。
罪の負債がキリストの血の中にすっかり沈められたとき、
自ずとそれに続いて、
キリスト信仰者にふさわしい生き方を探し求める信仰の戦いが始まるのです。

2020年2月5日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様の守りの中に逃げ込む 「詩篇」51篇8〜19節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様の守りの中に逃げ込む 「詩篇」51篇8〜19節(その1)

いくら犠牲を捧げても
自分の罪の負債から解放される可能性がまったくないことが
詩篇朗唱者にはわかっています。
犠牲の動物をいくら屠殺したところで、
人が罪から救い出されるはずがありません。
しかし
「自分が神様から罪の赦しをいただくのはもう無理だ」
と諦めてしまうのが彼の導き出した最終的な結論ではありませんでした。
むしろ彼は逆の行動をとります。
すなわち、
罪の赦しの恵みをいただいて罪から解放されることを
詩人は神様の御前に留まって祈り願うのです。
「主なる神様、どうか私を御顔の前から追い払ったりしないで、
むしろ御顔を私の罪から逸らしてください」
と詩人は懇願します。
もしも神様が詩人に無実の人の血を流した罪から解き放って
新たな人生を歩むことを許してくださるならば、
詩人の心は開かれて憐れみ深い神様を感謝して賛美することでしょう。
このように、
罪と裁きと罪の赦しの恵みとはひとえに神様の御業によるものなのです。


ここで思い出されるのが次に引用する
「ルカによる福音書」18章に登場する取税人です。

「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、
イエスはまたこの譬をお話しになった。
「ふたりの人が祈るために宮に上った。
そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、
『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、
不正な者、姦淫をする者ではなく、
また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、
目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、
『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
あなたがたに言っておく。
神に義とされて自分の家に帰ったのは、
この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう」。」
(「ルカによる福音書」18章9〜14節、口語訳)

この取税人は神様の御前で自分自身の罪深さについて一切弁明せずに
「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈りました。
人が自らの罪深さを自覚した上で、
それでもなお神様の御前に進み出て
恵みと罪の赦しを神様に祈り願う姿勢について
ルターは次のように書いています。

「これは天からの知恵です。
律法がこのことを教えたのではありません。
まして理性には聖霊様の助けなしに
このことを理解するのも把握するのも不可能なことです。」
(マルティン・ルター)