2019年2月27日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章1〜6節 終末は近い(その1)

「ペテロの第一の手紙」第4章 

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章1〜6節 終末は近い(その1)

「ペテロの第一の手紙」を1章から4章の冒頭まで読み進めてきた人たちは、
この手紙に次のような特徴があることに気がつくことでしょう。
この手紙には
「すべての罪人たちのためにキリストが行ってくださったこと」と
「このキリストの御業が私たちの生活に与える影響」という
二つのテーマが交互にあらわれます。
このようにして、恵みの福音は
手紙の読者が自分の生活の中でキリストに注意を払うように
絶えず教え導いてくれます。

ペテロの手紙を最初に受け取った人々は
極めて困難な状況の中で生活していました。
彼らは自らの信仰のゆえに迫害を受けていたのです。

この手紙の3章と4章との間のつながりはやや読み取りにくいかもしれません。
3章の終わりには、
キリストが私たち罪人の身代わりとして苦しみを受けることで
私たちを罪の呪いから解放して自由にしてくださったこと
が語られています。

これが4章の始めの部分と奨励の言葉に続いていきます。

「キリスト信仰者はこの地上でごくわずかの間だけ居住するにすぎない。
だから、この世を去った後で主に出会うという心構えをもって生活するように
普段から心がけるべきである」
というのがその奨励の内容です。

これは、
キリスト信仰者のこの世における生活態度が
他の一般の人々の生活態度とは根本的に異なるものであること
を意味しています。

原語版新約聖書のギリシア語本文によれば、
ペテロはキリスト信仰者たちに「武装する」(4章1節)ように奨励しています
(「エフェソの信徒への手紙」6章10〜17節も参照のこと)。

ペテロは、
手紙の受け取り手たちがキリストを信じるようになる前には
神様をないがしろにするひどい人生を送っていたことを
前提として書き進めています。

このことからも
手紙の受け取り手たちのうちの大多数が異邦人キリスト信仰者であり、
信仰に入る以前には偶像礼拝に参加していたことや、
その他の点でもごく一般的な異邦人の生き方をしていたこと
がうかがえます。

しかし、
キリスト信仰者とされた彼らは今や異邦人の生活習慣と袂を分かちました。
この態度変更は、
これまで彼らと一緒に普通の異邦人の生き方をしてきた古い仲間たちに
衝撃を与えました。
その結果として、
彼らとその旧友たちとの間には軋轢が生じました。
この問題のために、キリスト信仰者は
心の苦しみや体の痛みをこらえていく心構えが必要になりました。

このような厳しい試練にもかかわらず、
キリスト信仰者は
「この世で生きる時が短い間であること」や
「人は各々、キリスト信仰者を嘲ったり迫害したりする者たちも皆含めて、
いつか必ず全能なる神様の御前で自らのこの世での歩みについて
申し開きをしなければならなくなること」
を心に刻んで生きていくことになります。

2019年2月20日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 3章18〜22節 キリストの苦難と高挙(その3)

3章18〜22節 キリストの苦難と高挙(その3)

3章20節には不思議なことが語られています。
ノアが救われたのは「水を通して」でした。
「水によって」すなわち「洪水によって」ではなかったのです。
普通だったら後者のように理解するところでしょう。

ペテロが言いたいのは、
まさしく「水」がノアを悪人たちから救ったということです。
人間の罪こそが真の危険なのであり、
神様はノアをそれから救おうとされたのです。
それと同じように「洗礼の水」は
キリスト信仰者と、神様を信じない人々との間に境界を作ります。

「この水はバプテスマを象徴するものであって、
今やあなたがたをも救うのである。
それは、イエス・キリストの復活によるのであって、
からだの汚れを除くことではなく、
明らかな良心を神に願い求めることである」
(「ペテロの第一の手紙」3章21節、口語訳)。

ここで言う「からだの汚れを除くこと」とは
普通の意味で体を洗うことではありません。
手紙の受け取り手たちは洗礼と普通の入浴とを混同しませんでした。
使徒ペテロが意味しているのは、
罪を取り除こうとする人間自身の努力についてです。

洗礼では体を洗ってきれいにすることがポイントなのではありません。
そんなことをしても誰一人救われないからです。
しかし、洗礼は救います。
なぜなら、洗礼は
神様が保証してくださる「明らかな良心」についての契約だからです。

ギリシア語で「契約」を意味する言葉「エペローテーマ」は
元々は「願うこと」を意味していました。
しかし、時代が下るとともに
この言葉は取引の際に交わされる契約を意味するようになりました。

2019年2月13日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 3章18〜22節 キリストの苦難と高挙(その2)

 3章18〜22節 キリストの苦難と高挙(その2)

3章19節には、
キリストが「獄に捕われている霊どものところに下って行き、
宣べ伝えることをされた」(口語訳)とあります。
宗教改革者マルティン・ルターはこの節を
新約聖書で理解するのが最も難しい箇所であるとみなし、
明瞭な説明を与えることができませんでした。
この節からは例えば次のような三つの疑問が生じるからです。

1)いつイエス様は宣べ伝えたのでしょうか?
人としてこの世にお生まれになる前だったのでしょうか?
それとも、死んだ後と復活する前の間の時期だったのでしょうか?
あるいは、復活の後と天に昇られる前の間の時期だったのでしょうか?

二番目と三番目はどちらも可能な選択肢であると考えられます。

2)誰に対してイエス様は宣べ伝えたのでしょうか?
堕落した天使たちに対してでしょうか?
天使たち一般に対してでしょうか?
ノアの家族に対してでしょうか?
それとも、陰府の住民全員に対してでしょうか?

この箇所の文脈に基づくかぎり、
最後の二つの選択肢は可能なものであると言えましょう。

3)何をイエス様は宣べ伝えたのでしょうか?
救いでしょうか?
それとも敵に対する勝利でしょうか?

一番目の選択肢は
上掲の「ペテロの第一の手紙」4章6節と調和させて理解することも可能です。
これによれば、イエス様が陰府で宣べ伝えたのは福音であり、
宣べ伝えた相手は、生前に福音を聞く機会のなかった人々です。

しかし、3章19節と4章6節は互いに異なる内容を語っています。
キリストが陰府で悪魔の支配に対して勝利宣言なさった、
ということが3章19節の内容である、
という説明が最も有力であると思われます。

このメッセージによって使徒ペテロは手紙の読者たちを慰めようとしたのでしょう。

2019年2月6日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 3章18〜22節 キリストの苦難と高挙(その1)

3章18〜22節 キリストの苦難と高挙(その1)

3章18〜22節で、私たちの考えはふたたびキリストに引き戻されます。
これらの節を読むときに思い浮かぶのは「使徒信条」です。

キリストは死に至る苦しみを受け、
陰府で宣べ伝え、
天に昇り、
父なる神様の右の座に着かれました。

誕生間もない初期の教会ですでに用いられていた信仰告白や賛美歌が
この箇所には引用されていると思われます。
現代の私たちにまで引き継がれてきた「使徒信条」は、
まさしくこういった具体的な聖書の箇所を基にして
形を整えられてきたものなのです。

18節には、理解が容易ではない一組の用語
「肉において」と「霊において」が登場します。
これらの用語の意味するところは何でしょうか。
それについては様々な説明を考えることができるので、
決定的な解答を見つけるのは困難です。
ここではひとつの説明を解答例としてあげておきます。
それによれば、
この箇所における「肉」とは、
私たち人間がこの世で生きている間にその只中に置かれている
「現実の状態」を指しています。
そして、「肉」と対照的な言葉である「霊」とは、
私たちが死んだ後に始まる「真実の状態」を指しているのです。
このように考えるとき、
18節が言わんとすることは次のように表現できるでしょう。
イエス様はこの世で人間として殺されました。
イエス様は他の人間たちと同じようにして死なれたのです。
ところが、死んだ後に奇跡が起きました。
死者たちは皆、死後は死の支配下に置かれます。
しかし、イエス様の場合はちがっていました。
神様はイエス様をよみがえらせてくださったのです。
これは、イエス様が死に打ち勝ったこと、
また、神様の御心によって今もこれからも永遠に生きておられること
意味しています。
内容的に難しいこの18節を理解するためには、
「ペテロの第一の手紙」4章6節も合わせて読み込む必要があります。

「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、
彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、
霊においては神に従って生きるようになるためである。」
(「ペテロの第一の手紙」4章6節、口語訳)