2023年5月25日木曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」2章5〜20節 バビロニアを嘲る歌(その5)

 バビロニアを嘲る歌 「ハバクク書」2章5〜20節(その5)

 

「ハバクク書」2章16節の「主の右の手の杯」という表現は

「主の怒りの杯」と意訳される場合もあります。

たしかに聖書における一般的な用法によれば、

神様の杯から飲むことは神様の裁きの下に置かれること、

すなわち神様の怒りの杯から飲むことを意味しています。

その例としては、

旧約聖書ならば「イザヤ書」51章17、22節、

「エレミヤ書」25章15〜17節、「哀歌」4章21節など、

また新約聖書ならば「ヨハネの黙示録」14章10節、16章19節などを

挙げることができます。

 

神様はすべての被造物すなわち万物の主です。

「ハバクク書」2章17節によれば、

「レバノンになした暴虐」に対しても主による裁きが下されることになります。

例えば「イザヤ書」14章8節もそれに関連して理解することができます。

バビロニアによる暴虐さは「石は石がきから叫び、梁は建物からこれに答える」

(2章11節)という比喩からも窺えるほど凄惨極まるものでした。

 

2章18〜20節は神々の彫刻や鋳像などの偶像を礼拝することが

どれほど愚かであるかについて述べています。

偶像は見ることも聞くことも助けを差し伸べることもできません

(「イザヤ書」44章8〜20節にも詳細な記述があります)。

偶像には命の息が少しもありません

(2章19節、「詩篇」135篇15〜17節)。

 

活ける真の神様の御前において神様以外の万物は沈黙するべきです。

このことは「ハバクク書」2章20節の他にも「イザヤ書」41章1節、

「ゼカリヤ書」2章17節や次の「ゼパニヤ書」の箇所にも記されています。

 

「主なる神の前に沈黙せよ。

主の日は近づき、

主はすでに犠牲を備え、

その招いた者を聖別されたからである。」

(「ゼパニヤ書」1章7節、口語訳)

2023年5月15日月曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」2章5〜20節 バビロニアを嘲る歌(その4) 

  バビロニアを嘲る歌 「ハバクク書」2章5〜20節(その4)

「ハバクク書」2章15節からわかるように、

人前で裸をさらすことについて旧約の時代の人々は

多くの現代人とはまったく異なる考え方をしていました。

旧約の時代の考えかたは

大洪水が終わった後にノアが飲酒で酩酊した際の出来事によくあらわれています。

 

「箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。

ハムはカナンの父である。

この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。

さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、

彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、

父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。

やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、

「カナンはのろわれよ。

彼はしもべのしもべとなって、

その兄弟たちに仕える」。

また言った、

「セムの神、主はほむべきかな、

カナンはそのしもべとなれ。

神はヤペテを大いならしめ、

セムの天幕に彼を住まわせられるように。

カナンはそのしもべとなれ」。」

(「創世記」9章18〜27節、口語訳)

 

人前で裸をさらす状態は「ハバクク書」では

バビロニアが諸国民を裸同然になるまで徹底的に掠奪し尽くしたことの

比喩として用いられています。

次に引用する「列王記下」の箇所は

バビロニアがエルサレムを制圧した時の状況を伝えています。

 

「バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、

バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、

主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。

すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。

また侍衛の長と共にいたカルデヤびとのすべての軍勢は

エルサレムの周囲の城壁を破壊した。

そして侍衛の長ネブザラダンは、

町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕え移した。

ただし侍衛の長はその地の貧しい者を残して、

ぶどうを作る者とし、農夫とした。

カルデヤびとはまた

主の宮の青銅の柱と、主の宮の洗盤の台と、青銅の海を砕いて、

その青銅をバビロンに運び、またつぼと、十能と、心切りばさみと、

香を盛る皿およびすべて神殿の務に用いる青銅の器、

また心取り皿と鉢を取り去った。

侍衛の長はまた金で作った物と銀で作った物を取り去った。

ソロモンが主の宮のために造った二つの柱と、一つの海と洗盤の台など、

これらのもろもろの器の青銅の重さは量ることができなかった。

一つの柱の高さは十八キュビトで、その上に青銅の柱頭があり、

柱頭の高さは三キュビトで、柱頭の周囲に網細工とざくろがあって、

みな青銅であった。

他の柱もその網細工もこれと同じであった。

侍衛の長は祭司長セラヤと次席の祭司ゼパニヤと三人の門を守る者を捕え、

また兵士をつかさどるひとりの役人と、

王の前にはべる者のうち、町で見つかった者五人と、

その地の民を募った軍勢の長の書記官と、

町で見つかったその地の民六十人を町から捕え去った。

侍衛の長ネブザラダンは彼らを捕えて、

リブラにいるバビロンの王のもとへ連れて行ったので、

バビロンの王はハマテの地のリブラで彼らを撃ち殺した。

このようにしてユダはその地から捕え移された。」

(「列王記下」25章8〜21節、口語訳)

2023年5月12日金曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」2章5〜20節 バビロニアを嘲る歌(その3)

バビロニアを嘲る歌 「ハバクク書」2章5〜20節(その3) 

いずれバビロニアが滅亡するという預言の中には

世界宣教の予言も含まれています(2章14節)。


バビロニアの滅亡は神様が圧倒的な力をお持ちであることを

象徴する出来事でもありました。

これはイスラエルの民がモーセに率いられて

エジプトの地を脱出した時の出来事を思い起こさせます。

 

「民の逃げ去ったことが、エジプトの王に伝えられたので、

パロとその家来たちとは、民に対する考えを変えて言った、

「われわれはなぜこのようにイスラエルを去らせて、

われわれに仕えさせないようにしたのであろう」。

それでパロは戦車を整え、みずからその民を率い、

また、えり抜きの戦車六百と、

エジプトのすべての戦車およびすべての指揮者たちを率いた。

主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、

彼はイスラエルの人々のあとを追った。

イスラエルの人々は意気揚々と出たのである。

エジプトびとは彼らのあとを追い、

パロのすべての馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、

バアルゼポンの前にあるピハヒロテのあたりで、

海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。

パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げて

エジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。

そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った、

「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、

わたしたちを携え出したのですか。

なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。

わたしたちがエジプトであなたに告げて、

『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』

と言ったのは、このことではありませんか。

荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。

モーセは民に言った、

「あなたがたは恐れてはならない。

かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。

きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、

もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。

主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。

主はモーセに言われた、

「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。

イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。

あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、

イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。

わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、

彼らはそのあとを追ってはいるであろう。

こうしてわたしは

パロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破っ誉を得よう。

わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、

エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。

(「出エジプト記」14章5〜18節、口語訳)

 

しかしこれがより深いかたちで実現するのは

世界宣教が成し遂げられてキリストがこの世に再臨なさり

サタン(悪魔)の横暴が最終的な裁きを受けることになる

未来の出来事においてです。

このことについては

「ヨハネの黙示録」17章1節〜19章4節に記されています。

 

「ハバクク書」2章14節には

水が海をすっかり覆うという比喩がでてきます。

次の「イザヤ書」の箇所にも同様の表現がみられます。

 

「彼らはわが聖なる山のどこにおいても、

そこなうことなく、やぶることがない。

水が海をおおっているように、

主を知る知識が地に満ちるからである。」

(「イザヤ書」11章9節、口語訳)

 

これは主なる神様の世界中の隅々にまで及ぶ

圧倒的に強大な力をあらわしています。

全地に満ちる主の栄光については

「民数記」14章21節や「イザヤ書」6章3節にも記されています。

2023年5月4日木曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」2章5〜20節 バビロニアを嘲る歌(その2)

 バビロニアを嘲る歌 「ハバクク書」2章5〜20節(その2)

 

2章6節には最初の「わざわい」の託宣が出てきます。

同じような託宣の例としては

「イザヤ書」5章8〜23節、

「マタイによる福音書」23章13〜33節、

「ルカによる福音書」6章24〜26節、

「ヨハネの黙示録」9章12節、11章14節を挙げることができます。

 

2章8節は、悪がさらなる悪をもたらし、

暴力がさらなる暴力をまきおこすことを指摘しています。

この視点は以下に引用する新約聖書の「マタイによる福音書」や

「ガラテアの信徒への手紙」の箇所にも出てきます。

 

「そこで、イエスは彼に言われた、

「あなたの剣をもとの所におさめなさい。

剣をとる者はみな、剣で滅びる。」

(「マタイによる福音書」26章52節、口語訳)

 

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。

人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」

(「ガラテアの信徒への手紙」6章7節、口語訳)

 

このような悪の連鎖反応すなわち悪循環は

悪に対して悪をもって報復することによってではなく、

逆に善をもって応答することによってのみ断ち切られることが可能です。

 

バビロニアの壮大な建築事業は

他の諸民族から搾取し略奪することによって推進されました(2章9節)。

そしてそれは「我が国は決して他国に敗北することがない」

という傲慢な思い込みに基づくものでした(2章9節)。

しかし主は奢り昂る者に裁きの託宣を下されます。

このことについては「イザヤ書」14章4〜15節や

次に引用する「オバデヤ書」3〜4節などが参考になります。

 

「岩のはざまにおり、高い所に住む者よ、

あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。

あなたは心のうちに言う、

「だれがわたしを地に引き下らせる事ができるか」。

たといあなたは、わしのように高くあがり、

星の間に巣を設けても、

わたしはそこからあなたを引きおろすと

主は言われる。」

(「オバデヤ書」3〜4節、口語訳)

 

悪行を積み重ねて築かれた楼閣は脆いものであり、

結局は灰燼に帰してしまいます(2章12〜13節)。

人であれ国であれ、

神様から離れて生きようとするかぎり一切の労苦は無益なものです。

 

「万軍の主はこう言われる、

バビロンの広い城壁は地にくずされ、

その高い門は火に焼かれる。

こうして民の労苦はむなしくなり、

国民はただ火のために疲れる」。」

(「エレミヤ書」51章58節、口語訳)。