2013年12月19日木曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 19章38~42節 イエス様の埋葬


イエス様の埋葬 193842



すべての福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は、
アリマタヤのヨセフがイエス様を埋葬した、
と記しています。
「ヨハネによる福音書」では、ここにもうひとりの人物が登場します。
彼、ニコデモは、
始めの頃は、
昼間堂々とではなく、夜にこっそりと
イエス様を訪ねる程度の勇気しか持ち合わせていませんでしたが、
後には、
ユダヤ人の最高議会において、自分なりのやり方で、
イエス様のことを弁護するほどまでになりました。
ユダヤ人たちは大急ぎで仕事に取りかかりました。
ユダヤ人には埋葬の前に遺体を洗い清める習慣がありました。
しかし、このことに関しては、どの福音書も語っていません。
ヨセフとニコデモは、30キロもの大量の高価なクリームを持参しました。
こうして速やかに、イエス様は 王として埋葬されました。

2013年12月17日火曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 19章28~37節 イエス様の死(その2)


イエス様の死 192837節(その2)


イエス様のわき腹から血と水が流れ出た、
と語る「ヨハネによる福音書」は、
ここで何を言いたかったのでしょうか。
様々な説明があります。
イエス様の内側から今や命の水の泉が流れ出るようになったこと
738節)を意味していたのかもしれません。
あるいは、
洗礼(水)と聖餐(血)のことを示唆しているのかもしれません。
または、
十字架の傍らに立っていた証人に強い印象を与えた
この不思議な出来事を読者に伝えたかった、ということもあるでしょう。
この証人が、何らかの形で
「ヨハネによる福音書」の成立に関係していたのは、間違いありません。
たしかにイエス様は息を引き取られました。
しかし、無意味な暴力の犠牲者としてではありません。
イエス様の死の瞬間においてもなお、
万事は神様の御計画の通りに事が進んでいたことを示す
奇跡が起きていたからです。


イエス様が槍で突かれ、釘で打たれ、傷ついた時、
「ゼカリヤ書」1210節の御言葉が成就しました。
旧約聖書からのもう一つの引用箇所は、
「ヨハネによる福音書」にとって、
非常に重要な意味をもつことがらに関係しています。
すなわち、
イエス様は神様が定められた「過越の小羊」である、ということです。
かつて「主の過越」がエジプトに隷属していたユダヤの民を解放したように
(「出エジプト記」12章)、
私たちの罪のためにほふられる「神の小羊」もまた、
罪人たちを暗闇から光へと導き出してくださるのです。

2013年12月13日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 19章28~37節 イエス様の死(その1)


イエス様の死 192837節(その1)


「ヨハネによる福音書」は、
十字架の出来事の本質を最後までしっかりと描き切ります。
暗闇や、失望の叫び声や、悲嘆にくれた祈りなどについては記しません。
イエス様は本当の人間として苦しみを受けられました。
「ヨハネによる福音書」が書かれた時代にはすでに、
「イエスが苦しんだのは実体を持たない霊としてだけだ」、
と主張する人々がいましたが、それは間違っています。
十字架の上で死にゆく王様の強大な権威は、
地獄のような苦しみの中でも、
崩れ去ることがありませんでした。
天の御父様から受けた使命を全うなさった後で、
イエス様は息を引き取られたのです。

「モーセの律法」は、
木に架けられた男を太陽が沈む前に墓に葬るように命じています。
それは、
十字架刑に処せられた者は神の呪いを受けている、
とみなされたので、
もしも外に放置しておくと、
この呪われた者が聖なる地を汚すことになってしまうからでした。
十字架で長時間苦しんだ上で
死んでいかなければならない人々への同情心からではなく、 
汚されていない地で過越の祭りを祝うために、
ユダヤ人たちは、
死刑囚を速やかに十字架から降ろすことを、
ピラトに願い出たのでした。
その時点で、死刑囚の足の骨(脛骨)を折り、
大量に内出血させて死を早める手段(ラテン語でcrucifragium)が
とられるのが普通でした。


イエス様のところに来たとき、
足を折りにきた専門家たちは、
十字架上のイエス様を見て、
もうわざわざ足を折る必要がないことを告げました。
普通の人が死ぬようにして、
ユダヤ人の王は死にました。
実際に死んでいることを確認するために、
イエス様のわき腹を槍で付きました。
傷口が開いたわき腹からは、血と水が流れ出ました。
医学者たちは、何十年間も議論した末に、
このような現象は死んだばかりの人間についてはありうる、
というほぼ一致した見解に至りました。

2013年12月11日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 19章16b~27節 十字架に磔にされるイエス様


十字架に磔にされるイエス様 1916b~27


「ヨハネによる福音書」は、
イエス様のゴルゴタへの道と十字架にかかるまでの出来事を
簡潔に語ります。
ピラトは復讐心から、「ユダヤ人の王」という罪状書きによって、
ユダヤ人の指導者たちへの侮蔑をあらわにしました。
「ユダヤ人の王」であるためにこの男は十字架にかけられた、
という罪状は
この地における真の権力者が一体誰であるかを、
通行人全員に改めて確認させるものでした。
「私はユダヤ人の王である」という罪状書きのほうが、
ユダヤ人たちにとっては好都合だったことでしょう。
しかし、ピラトは、
この「ユダヤ人の王」に起きたことは
他のユダヤ人のどんな王に対しても起きることだ、
ということを明示したかったのです。
十字架の下で、悪の力は堰を切ったように猛威を振るいます。
十字架に打ち付けられた神様の御子の目の前で、
御子自身にとってはすでに不要になった衣服を誰が受け取るか、
くじが引かれました。
しかし、まさにこの侮辱的な行為において、
イエス様の十字架刑の出来事が
神様の大いなる御計画の通りに進行していることが
明瞭に示されています。
「詩篇」2219節の御言葉[1]が実現したのであり、
あふれる歓喜に包まれる同じ「詩篇」の終わりの部分も、
同様に必ず実現しつつある、ということなのです。
十字架の下には証人が立っていました。
それはイエス様の最愛の弟子でした。
彼にイエス様は、御自分の母親の世話をゆだねました。
この弟子はイエス様の従兄弟あるいは親戚だった可能性もあります。
「マタイによる福音書」(2756節)によれば、
十字架刑の現場には、ゼベダイの子らの母親がいましたし、
「ヨハネによる福音書」(1925節)によれば、
数人の女たちの中には、イエス様の母親の姉妹がいました。



[1] 彼らは互に私の衣服を分け、私の着物についてくじ引を行います。