2008年12月31日水曜日

マルコによる福音書について 第6回目の質問

第6回目の集まりのために

マルコによる福音書6章

イエス様は故郷のナザレで拒絶されます。洗礼者ヨハネは処刑されます。一方では、イエス様は福音を伝えるために弟子たちを派遣なさり、御自身も大きな奇跡を行われます。

1)マルコによる福音書は、イエス様が処女マリアからお生まれになったことについては語っていません。とはいえ、6章1~6節に基づけば、イエス様の誕生についてどのような結論を導き出すことができますか?

2)イエス様は故郷のナザレでは受け入れられませんでした。イエス様はそこでは昔から知られすぎていた人物だったからです。

現代の人々の間では、新しくあらわれた宗教的なさまざまな流れは、キリスト教よりも多くの興味と関心を集めているように見えます。ちょうどイエス様がナザレでそうだったように、キリスト教もまた現代の人々(とりわけクリスチャン)にとってあまりにも周知のことになってしまっているのでしょうか?

3)イエス様は弟子たちを、人間的に見ればたいした旅の用意もないままの状態で、派遣されました(6章7~13節)。財布ももたず、パンもなく、袋もないままで、弟子たちは福音を伝えるために派遣されたのです。私たちも同じようにして自分の身近な人たちのところに出かけていくことができますか?あるいは、海外宣教に行くことについてはどうですか?

4)ヘロデは新約聖書の中で、誕生日を祝う会を催したと伝えられる唯一の人間です。このことは私たちにとって何か意味をもっているでしょうか?誕生日には何をお祝いするのでしょうか?また少し歳をとったことでしょうか?それともそれは、神様の賜物と導きについて神様に感謝する時なのでしょうか?

5)ヘロデは洗礼者ヨハネを処刑したものの、心には依然として平安がありませんでした。死んだ後もなお人々の心を揺り動かしているような、教会史の中に登場する人物たちを、あなたがたは知っていますか?

6)旧約聖書のどの箇所に、大勢の人に食べ物を与える奇跡について記されていますか?

7)大勢の人に食べ物を与える奇跡の出来事には、とても大きな象徴的な意味もありました。これは特にマタイによる福音書において顕著です(マタイによる福音書14章15~21節)。イエス様は五つのパンと二匹の魚を祝福して、大群衆にも十分足りるような食べ物とされました。

私たちもまた飢餓で苦しんでいる世界の人々に対して、幾つかのパンと魚を差し出して、イエス様に祝福していただくことができるでしょうか?

8)イエス様が水の上を歩いたという奇跡は、多くの人にとってどうにも信じられないことがらです。「実はイエスは浜辺の岩の上を歩いたのだ」と説明する人たちが昔いました。今の多くの学者は「この出来事は作り話である」とためらいもなく断言しています。

こうした考え方は、このように主張する人々が聖書やあるいは一般的に超自然的な世界に対して取っている態度について、どのようなことを示していますか?