2008年2月13日水曜日

私は正しく生きているでしょうか。

何がクリスチャンとして正しい生き方か、どうすればそのように生きられるか、今日はこのことを考えてみたいと思います。


私は正しく生きているでしょうか。


ヤリ・ランキネン


神様は人を「御自分のかたち」に創られました。それは、神様は人をあることがらについては「神様と似たもの」となさった、という意味です。「神様のかたち」は、神様が知っておられるのと同様に、何が正しくて何がまちがっているか知っていました。神様のかたちとして人は「悪を避け正しく行動しなければならない」ことを理解し、また常に正しく行動しました。神様のかたちとして創られたということは、自分の行いについて神様に対して責任をもつということでもあります。神様は御自分のかたちに対して「神様のように生きていたか、正しいことを行ってきたか」について厳しいチェックを要求なさいます。ところが、はじめの人(アダムとエバ)が罪に堕落するということが起きてしまいました。その結果として人は「正しく生きるという能力」を失ってしまいました。罪の堕落が起きたため、私たち人間はするべきではないことを行い、しかもそれをせずにはおられなくなってしまいました。たとえそうすることが間違っているとわかっている場合であっても。たとえどんなに違った生き方をしようと努力しても。罪の堕落のもうひとつの結果として人は何が正しく何が間違っているかを知る能力がひどくあいまいになってしまいました。私たちの心の奥底も罪の堕落のために罪に汚されてしまっているため、正しいことを間違ったこととし、間違っていることを正しくみなしてしまうことがあるほどゆがんでしまっています。しかも実際にしばしばそのように行ってしまうのです。それゆえ、何が正しく何が間違っているかについての知識を私たち自身の「外側」から得る必要が私たちにはあります。確かに罪の堕落が起きてしまったとはいうものの、私たちは依然として「神様のかたち」なのです。私たちには正しいことと間違っていることについての理解が、たとえそれがどんなに曇ってしまっているとしても、残っており、私たちは自分の行なったことについて神様に対して責任を負うことになるのです。

罪の堕落は人を御自分のかたちとして創られたお方を汚しはしませんでした。創り主なる神様は何が正しく何が間違っているか、人の罪の堕落の前も後もかわりなく御存知で、常に正しく働かれています。神様は正しいことと間違っていることについての知識を御自分のものだけに留めてはおかれませんでした。神様はこれらについても私たちに御自分の御言葉をお与えになることによって語っておられます。それは次のふたつのことを意味しています。
1) 神様は聖書を与えてくださいました。神様の選ばれた人々が、神様が御自分で創られた人間に対して言われたいことを書き取りました。聖書には正しいことと間違っていることとについて聖書の立場を明瞭にしている箇所が数え切れないほどたくさんあります。それらは、何が正しく何が間違っているか正確に御存知である神様御自身の立場の表明なのです。それゆえ、正しいことと間違っていることとの感覚が曇ってしまっている私たち人間はそれらを注意深く聴いていくべきです。
2) 神様御自身がこの世に来られました。イエス様が人としてお生まれになったときにこのことは実現しました。イエス様は神様の御言葉であられ、神様御自身であられます。イエス様の中で「天地の主」が話し、教え、活動し、働きかけておられます。それゆえ、イエス様が正しいことと間違っていることとについて教えておられることは「神様の教え」なのです。私たちは「何が正しいか」を問うときには、「イエス様はどのように考えておられるか」について問うべきです。もしもそれを知るならば、私たちは神様の立場を知ることになります。イエス様のお考えについて私たちは聖書から知ることができます。聖書はまさしくイエス様についての書物なのですから。

聖書が何が正しく何が間違っているかについて語っていることは、人間が心の中でぼんやりと理解していことがらに対応しています。聖書が命じたり禁じたりしていることを聞くときに、あたかも私たちの心の中で誰かが「これは本当だよ」と言っているかのように感じるものです。たとえ人がそのあとで聖書の教えに反抗することになったとしてもです。これはどうしてでしょうか。それは、聖書が私たちの創り主の書物であり、私たちが私たちの創り主のかたちであるからです。人間ひとりひとりの中にある「何か」が、私たちの創り主が正しいことと間違っていることについて語っておられることがらに対応しているのです。このことは、私たちが聖書の命じていることがらをまわりにもはっきり語って、またそれに従って活動するように励ましてくれることでしょう。

ソヴィエト連邦では聖書の命じていることがらを教えることが禁止されました。聖書は廃棄され、また聖書の教えは人間たちが自分で考え出したいろいろな教えに取って代えられました。それらの新しい教えは聖書よりもずっと優れていると感じられたのです。さあ、何が起きたでしょうか。国民は盗んだり嘘をついたり周りの人を無視して生活することを学んでしまいました。国の経済もめちゃくちゃになり、前の「敵国」からの援助なしには立ち行かなくなりました。もっとも援助があっても厳しい状況はつづきましたが。自然もひどく破壊されました。ソヴィエト連邦ではこういう結果になりました。聖書やその命じていることが無視されているところではどこであれ、それと同じようなことが起こります。聖書は人間に最上の生活の教えを与えています。たとえば携帯電話など何か装置を使用するときに、その製造元が与えた装置の使用法を無視していると、その装置はまもなく壊れてしまいます。聖書ではこの世界の「製造元」が話しているのです。そしてこの「製作者」は、自分が創った世界でできるかぎり多くのものができるかぎりよい状態を保つためにはどのように生きていくべきなのか、よく知っています。

正しいことと間違っていることについての聖書の教えはすべて「愛の二重命令」に言い尽くされています。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」(マタイによる福音書22章37、39節)。「愛さなければならない」ということについては、間違いなく私たち人間は皆同じ意見でしょう。しかし、「愛とは何か」という点に関してはいろいろな意見があります。「愛とは何であり、様々な状況でどのように愛を実現していくべきか」ということについては、私たちの「外部」から説明してもらえない限り、私たちは知ることができません。そして聖書の中でその説明がなされています。聖書の中にある他の命令は「愛の二重命令」を補足説明するものなのです。十戒は愛の命令をすでにかなり広範にわたって説明しています。第一戒から第三戒までは「神様を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、私たち人間が他の神々(偶像)に仕えたりしないこと、神様の御名をいたずらに用いたりしないこと、安息日を聖とすることです。第四戒から第十戒までは「隣り人を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、両親を敬うこと、殺さないこと、姦淫をしないこと、盗まないこと、偽証しないこと、他の人のものを欲しないことです。

聖書には他にもたくさんの命令があります。それらもまた「神様や他の人を愛するとはどういうことか」ということを説明しています。聖書は人がすべてのことについて神様に感謝するように命じています(テサロニケの信徒への第1の手紙5章18節)。それは神様に感謝することは神様を愛することだからです。聖書は「税金を払わなければならない」と教えています(ローマの信徒への手紙13章5~7節)。たとえそれが高すぎると感じられる場合であってもです。税金をごまかして申告をするのは他の人たちに対する愛の欠如のあらわれなのです。

イエス様が地上で何を行われたか、どのように活動されたか、何を話されたか、ということから私たちは「神様と隣り人を愛することがどういうことであるか」を知ります。イエス様の中で神様御自身が活動なさいました。そして神様は愛の命令を破ったりはなさいません。私たちだったらこうはしなかっただろうと思われるような状況の中でもイエス様は愛してくださり、正しく活動されました。「何が愛であり、どのように活動すべきか」考えるときに、「イエス様だったらこのような状況の中でどのようになさるだろうか」考えてごらんなさい。イエス様と同じように行いなさい!もしそうするなら、あなたは愛しているのです。

私の友人はあるとき不倫についての教会の見方についてインタヴューを受けました。質問者は3度も違う表現と違う根拠を持ち出しては自分自身が行っている不倫を正当化しようとしました。私の友人が「聖書には第六戒がある」と3度繰り返して答えたところ、その質問者は傷ついて、「あなたたちの中にはもっと事情に通じている専門家はいないのか」と尋ねました。不倫についての聖書の取る立場があまりにも嫌だったので、質問者はそれを斥けて、もっと自分にとって都合のよい答えを聞きたくなったのでした。聖書の 多くの命令は、それらがまさしく「私たちが聞きたくないようなメッセージ」であるため、私たちにとって受け入れるのが難しいものなのです。なぜなら、聖書が言っていることとは違うことを私たち自身が行っているからです。そういうわけで「もうこのような聖書の命令は従う必要がないだろう」としばしば言われたりするのです。

聖書の中には「古びた命令」があるのでしょうか。つまり現代の世界ではもはや従う必要がなくなった命令があるのでしょうか。私たちよりも優れた回答者である「神様の御子」が正しい答えを教えてくださっています。
「私はあなたがたにまことのこと[1]を告げます。天地が消え去るまでは、すべてがなるまでは、律法から一点[2]、一画[3]もすたることはありません。」(マタイによる福音書5章18節)。聖書は神様の御言葉です。神様は変わりません。神様が言われたことも変わりません。神様が罪と定められたことは罪です。それは罪であったし、今も罪であるし、これからも罪です。たとえ私たちが「どうしてそれがもはや罪ではないか」よい説明をこしらえたとしても。あるいは、たとえ私たちが行っていることがあまりにも一般的でもはやそれが罪とはみなされてはいなかったり、少なくとも悪質の罪であるとはみなされていない場合であっても。神様をうそつき呼ばわりするのは神様を侮蔑することです。「(自分たちにとって都合の悪い)神様の御言葉のこの部分とあの部分はもはや有効ではない」などと考えている者は、神様をうそつき呼ばわりしています。大切なのは、「私たち人間は罪に堕落した存在であり、それゆえ正しいことと間違っていることとについての私たちの理解はおかしくなっていること」を強調することです。人間とは違って、神様は堕落なさったりはしませんでした。「神様は小さい罪と大きな罪とを分け隔てはなさらない」ということも覚えておいたほうがよいでしょう。神様の命じておられることを破るとき、私たちはいつでも大きな罪を犯しているのです。それがたとえ私たち自身にとってはどんなにとるに足りない些細なことに感じられたとしてもです。「地獄の火に投げ込まれるのが当然なのは人殺しだけではなく、他の人を馬鹿と言う者もそうである」とイエス様は教えてくださいました。神様の目には小さい罪も大きな罪です。そして、その逆ではありません。

聖書には私たちクリスチャンには直接かかわりがないことがらも確かにあります。かつて神様は旧約に属しイスラエルの民のみが従わなければならなかったいろいろな命令をお与えになりました。犠牲をささげることについての多くの規定はそのような命令であるし、「血を避けよ」という聖書の禁止命令も旧約の民に与えられた命令です。聖書自身「新約が結ばれた以上、これらの規定はもはや私たちにはかかわりがない」と言っています[4]。なぜなら、これらの規定には実はたったひとつの目的があるからです。それは人間を罪の呪いから解放して人間に義をもたらすことです。神様の御子が十字架で死んで、世界全体をその罪の呪いから解放し、皆のために義を備えてくださいました。それゆえ、モーセの律法の多くの規定にはもはや従う必要はなく、また従ってはいけないのです。それらに従うことはイエス様の死を侮蔑することです。なぜなら、それは自分自身の行いによって救いを得ようとする試みだからです。しかし、「救い」はイエス様が私たちにすでに確保してくださったのであり、救いを得るために私たちが何かを行うことなどまったくなしに、イエス様が私たちに賜物として与えたいと望まれているものです。

楽園で悪魔は人間が神様の御言葉を疑うように仕向けることに成功しました。悪魔は神様の明瞭な命令を迂回する言い訳を捏造し、人間が罪を行うようにさせました。同じように悪魔は今でも働きかけています。なぜ神様の御言葉のこれこれの箇所はまじめに受け取る必要がないか、悪魔は説明をひねりだします。聖書を軽んじたり、聖書が言っていることと異なることを行うように助言する「声」は悪魔の声です。たとえその声が教養があり理性的で愛に満ちているように感じられるものであったとしてもです。この問題の核心には「悪霊との戦い」があります。私たちは神様の聖霊様に聞き従っているでしょうか、それとも、悪魔の言うことを聞き入れてしまっているでしょうか。神様の霊は私たちを聖書に結び付けようと欲しています。それに対して、悪魔は私たちを聖書から引き離そうとします。 

命じられていることや禁じられていることが「すべて」聖書に基づいているわけではありません。人間が自分で作り出し、私たちがそれらに従うように強制してくる「言い伝え」が今もたくさんあります。もしも人間たちが作った命令が神様の御言葉と同じレヴェルに置かれ、それらに従うことを要求される場合には、神様の御言葉が侮蔑されていることになります。なぜなら、そのときには「人間の意見」が神様の御言葉と同等のものとみなされているからです。あなたが何かをやるように要求されたり、何かをやらないように禁じられたりするときには、聖書のどの箇所でこのように命じられているか、尋ねなさい。もしもそのような箇所が見つからない場合には、そのような命令に従う必要はありません。

神様の命令を破ることは危険です。それには3つの理由があります。
1)神様は聖なるお方です。神様の御言葉を無視することは神様の聖性を傷つけます。神様は長い間人間たちの愚かな行いを耐えてこられました。しかし、遅かれ早かれ神様はお怒りになります。神様の怒りはすでにこの世において人に個人的に向けられることもあれば、ある国民全体に向けられることもあります。しまいには、この世が終わり皆が神様の御前に立ち裁きが始まるときに、神様の怒りは神様の命令を侮蔑する者たちに向けられることになります。
2)神様の命令を破ることによって人は神様から引き離されていきます。罪が人の良心を汚し、やましい良心で生きている者は神様を避けるようになります。人間は神様の命令を破れば破るほど、それだけ遠く神様から離れていきます。それは人間に起こりうる最悪の事態です。なぜなら、本来人は神様と共に生きるために創られたからです。神様の命令を気にもかけない態度は神様から人間を最終的に隔離してしまいます。これが「滅び」と呼ばれるものです。
3)神様の命令は「命の律法」です。もしもそれらに従うならば、従わない場合よりもよりよくこの世で生きていくことができます。

神様の律法は「どうすれば正しく生きられるか」について語っています。それに加えて命令にはもうひとつの大切な使命があります。それらは「私たちがどのような存在であるか」をありのままに示す「鏡」のようなものです。「どのように私は生きるべきであるか」について聞くときに、「私は正しく生きているか」という難しい問題の前に立たされます。正直に自分とその生活を省みる人は誰でも、「自分が正しくは生きてこなかった」ことを認めるほかないでしょう。ある人はあるやり方で、またある人は他のやり方で、また各人が多くのやり方で神様の命令を破ってきたのです。神様はこうしたことを憎んでおられます。それゆえ、私たちは皆それぞれが神様の裁きを受けるのが当たり前の存在なのです。

「フィンランドには罪人が少ないね」と、日本で伝道していたある宣教師がフィンランドに帰ってきた折に言いました。これは「私たちフィンランド人はあまりにもよい人になったため、もはや罪人とは呼べない」という意味ではありません。その人が言いたかったのは「フィンランド人は自分自身を罪人とはみなしてはいない」ということです。その宣教師はフィンランド国内を伝道してまわったときに、人々が福音に対して驚くほどわずかしか興味を示さないことに気が付いたのでした。「この国では人々が自分の悪さを理解せず、それゆえ恵みも必要とは感じていないためだからだろう」とその人は結論しました。「フィンランドには罪人があまりにも少なく、それゆえ福音を求めている人もとても少ない」ことがどうしてか、私はわかるような気がします。神様の律法について宣べ伝えられることがあまりにも少なすぎるのです。あるいは、あたかも人は自分の力で神様の命令を完全に守ることができるかのような誤解を招く仕方で、神様の律法が宣べ伝えられているからです。律法の使命は、人を捕らえてその罪をあらわにし、その人も他のすべての人と同様に罪人であり滅びるのが当然であるような存在だということを明瞭に示すことです。そして、このことを理解した者は福音を渇望するようになります。

「神様の命令を宣べ伝えてはいけない。必要なのは「優しい福音」だけだ」と考えている人たちもいます。これは正しくありません!もしも神様の御言葉が私たちに正しい理解を教えてくれなければ、正しいことと間違っていることについて私たちの理解は前よりもいっそうあいまいになってしまいます。私たちは毎瞬間イエス様を必要としているのであり、とりわけこのことを理解するために、私たちは神様の命令が必要なのです。律法なしでは私たちは「自分がその生き方によって神様を喜ばせることができるほどよい人である」かのように思い込むようになります。しかし、このような思い込みのすぐそばに滅びが待ち受けているのです。律法はこの思い込みをなぎ倒し、私たちについての真実の状態、私たち自身の悪さ、を明らかにします。そして、私たちが自分の罪の赦しを願い求めまたそれをいただくように、私たちをイエス様のみもとに追いやります。

律法は必要です。しかし、律法は誰も救いません。なぜなら、神様に受け入れていただけるほど「十分に」神様の律法を完全に実行できる人は誰もいないからです。それでは、何が救ってくれるのでしょうか。それは「福音」です。神様の福音はイエス様と十字架についてのメッセージです。神様の御子は裁きを受けました。それゆえ私たちは裁かれません。イエス様は御自分を犠牲としてささげられました。それゆえ私たちはそのすべての罪を神様から赦していただきました。イエス様は神様の律法をはじめからおわりまで完全に実行なさいました。このゆえに神様は「イエス様に避けどころを求める者」を御自分にふさわしい者とみなしてくださいます。彼らは自分たちの生き方に基づくならば神様に対してふさわしい者などではありえないのにです。イエス様は私たちに御自分の死によって神様の恵みを確保してくださいました。それが私たちの守りとなり、私たちは聖なる神様の御前で耐え切ることができるのです。神様の恵みは「キリストのもの」である者にとって守りなのです。「キリストのもの」というのは、キリストに所属するものとなるべく洗礼を授けられ、キリストを信じている人のことです。救いは「賜物」です。私たちはそれを何かの「報酬」として受け取ることはできないしその必要もありません。その賜物は、それを受け入れたい人なら誰でもただでいただけるものです。「人がどんな存在であり、人は何を行うことができるか」ということとはまったく関係なしにです。自分が罪人であり裁きを受けるのが当然であることを理解した者は、罪の呪いから解放してくださったお方についての福音を受け入れます。律法は、それがどのように宣べ伝えられようとも、イエス様への信仰を生み出したりはしません。それを可能にするのは福音のみです。私たちは信仰を通して救われますが、その信仰を強めてくれるのは、律法ではなく福音です。

私はどこから神様の御意思を満たす力を得るのでしょうか。「どのように生きるべきか」について正確に厳しく知らされても、私にはそんな元気は出ません。力を与えてくれるのは福音です。すなわち、「どれほどたくさん神様は私を愛してくださったか、また愛してくださっているか」、ちゃんと私は知っているということです。神様から賜物として永遠の命をいただく人は、神様に感謝するものです。神様に感謝するということは、生活の中で神様の御心を実現することです。福音から、すなわち「神様の恵みのみによって私は救われる」ということから、私は「神様の御心に適う生き方をしたい」という力と意志とをいただきます。私に対して信じられないほどよいお方、「私の御父様」に対して私は忠実でありたいです。それと同時に、「私たちは決して完全になることなどはありえないこと、また完全に近づくことすらありえないこと」を心に刻んでおく必要があります。

信仰が生活を「制限」するのは確かです。クリスチャンとして生きることは「神様を畏れること」です。神様を畏れることは「私が神様に完全に依存している」こと、すなわち「私の命は神様が私に何を与えてくださるか、神様は私に対して憐れみ深いだろうか、によって完全に左右されている」ということを理解することです。それゆえ私は神様を怒らせたいなどとは夢にも思いません。もしも私が神様を怒らせて悔い改めないままでいるならば、神様は私を認めたりはなさらないでしょう。そして私にはありとあらゆる悪いことが起こるでしょう。神様は御自分の御言葉が無視されることを憎んでおられます。それゆえ私には神様の御意志を無視して生きていくような真似はとてもできません。そんなことをすれば聖なる神様を怒らせることになるし、それを私は恐れているからです。このように信仰は私たちの生き方に制限を与えます。私は自分が生きたい放題の生き方をすることはできません。しかし、神様の命令が定めている限界は「よい限界」なのです。それらは命を守っています。もしもそれらに従うなら、多くの悪を避けることができます。  



[1] 原語では「アーメン」。
[2] 原語では「イオータ」(ギリシア語の小さなアルファベット。英語のiに相当)。
[3] 原語の意味はアルファベットに付けられる「小さな飾りの記号」。たとえばイオータ・スブスクリプトゥム(ある種の長母音のアルファベットの下にくっついている非常に小さなイオータ記号のこと)。
[4] たとえばヘブライの信徒への手紙10章。