2008年1月22日火曜日

「結婚前の性的関係、同棲、結婚」と聖書

エルッキ・コスケンニエミ

とりわけクリスチャンの若者の間で一番興味をもたれまた大切なテーマは、聖書は結婚前の性的関係について、婚約について、またいつ結婚が正式に始まるかについて何を教えているか、ということです。
これから旧約聖書と新約聖書の背景、すなわち神様の御言葉をふまえて、このテーマを考えてみることにしましょう。

フィンランドの現在の状況を考えるために、その歴史的背景を知っておく必要があります。フィンランドでは「同棲」が社会的制度として認められています。それは1960年代までは非常にまれだったものの、その後急速に増え広がりました。この一般的な状況の変化とともに、教会の一般的な教えは「結婚前の性的関係が罪である」ことに対して確信を失ってしまいました。議論の的となったのは「結婚が正式に始まる瞬間」です。
「結婚に基づく性的関係は本当に結婚式での「牧師のアーメン」の後から始まるのだろうか。結婚前に一緒に生活することを試してみてもよいのではないか。外面的な「結婚式」という儀礼などなくても。その代わりに当事者同士で交わされた約束で十分ではないか」などという主張がなされました。


1.旧約聖書

旧約聖書は「結婚」を非常に敬い大切にしています。このことはすでに創世記の2章にあらわれており、結婚が社会における基本的な単位を構成していることを告げています。興味深いのはこのことを裏付ける次の規定です。婚約したばかりの男性は戦争に参加してはならず、自分の妻のそばにいなければなりませんでした。

「女性と婚約して、まだその女性と結婚していない者があれば、その人を家に帰らせなければなりません。そうしなければ、彼が戦いで死んだ場合に、他の人が彼女と結婚するようになるでしょう。」(申命記20章7節)

旧約聖書の世界では多くの点で家族の父親が中心的な役割を担っています。中近東での一般的な慣習と同様に、イスラエルでも両親が自分の子供の結婚式の準備をしたと思われます。もっともモーセの律法はこのことについては何の規定も設けてはいませんが。

旧約聖書の世界では「結婚する時に花嫁は処女でなければならない」ことは自明でした。結婚する時に花嫁が処女ではなかった場合について、申命記22章20~21節は花嫁に対して死刑を定めています。この規定は創世記38章のユダとタマルの出来事にも関わっています。

重大で死刑にあたる犯罪としては他に「姦淫の罪」がありました。これは結婚している男性が他の人の妻と性的関係を持つことを意味しています。一方で、旧約聖書には男たちが道端の娼婦と性的関係をもちながらも罰せられなかったように見える記述があります(たとえば前述の創世記38章のユダの振る舞い)。このように旧約聖書は中近東の(男性と女性に対して別々の)「二重道徳」を浮き彫りにしていますが、モーセの律法にはそのような二重道徳を正当化するような規定はまったくありません。


2.新約聖書

A) どのように人々は結婚しましたか。

ユダヤ人たちの結婚はおそらくすでにイエス様の時代に三つのことなる段階を経て実現しました。まずはじめに「婚約」です。人が婚約する時に花嫁と花婿の両親は結婚式について話し合って決めます。この後に花嫁の家で証人を前にして結婚の誓約がなされ、花婿は花嫁に贈物を届けます。性的な肉体関係はまだ許されていませんでしたが、この段階では結婚を取り消すことはもはやできませんでした。第三番目の最後の段階はおそらくそれから一年たってようやく実現しました。その時にけたたましい歓喜に包まれた結婚式のお祝いの中で花婿と花嫁は最終的に「結婚」しました。その日には友人たちが花嫁を花嫁の家でお祝いの服に着替えさせます。そして花婿の訪れを待ち始めます。花婿が友達と共に姿を見せると、中東的なにぎやかな結婚のお祝いが始まります。そこでは花嫁と花婿は喜びを分かち合っている周りの人たちによって彼らの新居に運ばれていきます。

私たちはこのような「結婚」の仕方に聖書のいろいろなテキストの中で出会います。マリアとヨセフは婚約していました。しかし、ヨセフはマリアに生れようとしている子どもがヨセフの子ではないことを知っていました。なぜなら、結婚前に性的関係をもつことは許されてはいなかったからです。イエス様は結婚のお祝いを、御自分の再臨や最後の裁きや天国での大いなる喜びを教える譬えのイメージとしてしばしば用いておられます。


B) 御言葉

このテーマに関係している新約聖書のもっとも重要な(ギリシア語の)言葉は「モイケイア」や「ポルネイア」やこれらの言葉と似た意味を持つ他の言葉です。

「モイケイア」は聖書では「姦淫」と訳されることが多くあります。そして「姦淫」は当然罪であるとして裁かれています。たとえばコリントの信徒への第1の手紙6章9~11節には人が神様の御国を受け継ぐことができなくしてしまうようないろいろな罪が挙げられており、姦淫もそのリストの中に入っています。しかしこのことは、旧約聖書がユダヤ人の信仰に与えている背景を知っている者にとっては驚きではありません。

もうひとつの言葉「ポルネイア」は「不品行」と訳されています。「モイケイア」が姦淫の罪に関係しているのに対して、「ポルネイア」は結婚の外部でなされる(男女間の)性的関係を意味する一般的な言葉です。この言葉はまたときには姦淫を意味することもあります。この言葉の基となっているのは「ポルネー」という言葉で、非常に古い歴史をもつある種の職業で自分を養っている女性のことを意味しています。つまりこの言葉の意味にははっきりとした色付けがなされています。そして、これらを聖書は厳しく罪に定めているのです。
さて今度は神様御自身が語られていることを聴きましょう。

「すなわち内部から、人々の心の中から、悪い思いが出て来ます。不品行(ポルネイアイ)、盗み、殺人、 姦淫(モイケイアイ)、貪欲、邪悪[1]、欺き、好色、妬み[2]、誹り、高慢、愚痴。」(マルコによる福音書7章21~22節)

「それとも、あなたがたは正しくない者たちが神の国を受け継ぐことはないのを知らないのですか。まどわされてはいけません。不品行な者たち(ポルノイ)、偶像を礼拝する者たち、姦淫をする者たち(モイコイ)、男娼となる者たち[3]、男色をする者たち[4]、盗む者たち、貪欲な者たち、酒に酔う者たち、そしる者たち、略奪する者たちは、いずれも神様の御国を受け継ぐことはないのです。」(コリントの信徒への第1の手紙6章9~10節)

「不品行(ポルネイア)を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にあります。しかし不品行をする者は自分のからだに対して罪を犯すのです。「あなたがたのからだは神様からいただいてあなたがたの内に宿っておられる聖霊様の神殿であって、あなたがたは自分自身のものではない」ということをあなたがたは知らないのですか。あなたがたは大きな代価を払って買いとられたのです。それだから、自分のからだをもって神様の栄光をあらわしなさい。」(コリントの信徒への第1の手紙6章18~20節)

「私が再びそちらに行った場合、私の神様があなたがたの前で私をへりくだらせることにならないでしょうか。そして、前に罪を犯していた多くの人たちが、その汚れと不品行(ポルネイア)と好色の中に活動を続け、それらを悔い改めもしないので、私は悲しむことになりはしないでしょうか。」(コリントの信徒への第2の手紙12章21節)

「肉の働きは明白です。すなわち、不品行(ポルネイア)、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、自分中心のグループを作ること、違った考え、異端、ねたみ、泥酔、度を過ごしたパーティー、またそのたぐいのことです。私は以前も言ったように、今も前もって言っておきます。このようなことを行う者は神様の御国を受け継ぐことがありません。」(ガラテアの信徒への手紙5章19~21節)

「また、不品行(ポルネイア)やあらゆる汚れや貪欲については、あなたがたの間では口にすることさえしてはなりません。そうするのが聖徒にふさわしいことだからです。」(エフェソの信徒への手紙5章3節)

「神様のみこころは、あなたがたが聖くなり、不品行(ポルネイア)を避け、各自、気をつけて自分のからだ(スケウオス、器)を聖く尊く保つことです。」(テサロニケの信徒への第1の手紙4章3~4節)

上に挙げた聖書の箇所の言い方には非常に厳しいものがあります。「不品行」を行う者(男性も女性も)について、彼らは神様の御国を受け継ぐことができない、と何箇所かで言われています。性的肉体関係は結婚にのみ属することです。ヘブライの信徒への手紙13章4節で言われている通りです。

「結婚はあらゆる点で尊いことです。また夫婦の寝床は汚れなく保たれるべきです。なぜなら、神様は不品行な者たち(ポルヌース)や姦淫をする者たち(モイクース)をお裁きになるからです。」(ヘブライの信徒への手紙13章4節)


C) クリスチャンではない人たちの結婚

興味深くまた大切なのは、聖書に根ざしている教会でその初期から今に至るまで続いている考え方です。海外宣教を行っている教会はクリスチャンではない人たちの結婚をまじめに受け止めてきました。コリントの信徒への第1の手紙7章は「夫婦のうち片方がクリスチャンでもう片方がクリスチャンではない場合、信仰者の方が信仰者ではない方を見捨ててはいけない」と明瞭に指示しています。この教えは、結婚がたんに人間の信仰に基づくものではなく、神様御自身が結婚を設定なさったことに基づいています。こうした理由から、たとえばクリスチャンになった夫婦を再び教会で結婚させることはありません。たとえば他の宗教のどのようなやり方で結婚式がもたれたにせよ、彼らはすでに「結婚」しているのです。


3.私たちは?

神様を見出した人たちにとって、結婚前の性的関係や結婚の外部での性的関係は重い罪です。現代どれだけ多くの人々が私たちの周りでそうしたことを行っているとしても、それらが罪であることはかわりません。

聖書が「結婚という制限を越えた性的関係」を拒絶している理由を、「神様はこの世界に結婚の外部で生れた子どもたちを望まなかったからだ」と説明付ける人たちがいます。「しかし、避妊の技術が発達した今、もはや以前と同じ問題はない」と言うのです。しかし、このように神様のお定めになったことの「背後」からこの問題を理解するための理由を探り出そうとするのは、非常に危険なことです。イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じです。この御言葉はもともとの文脈(ヘブライの信徒への手紙13章8節)の中では、「主はいつも同じなので、クリスチャンに与えられている規定もまたかわることがなくいつまでも同じだ」ということを意味しています。

それでは、私たちクリスチャンの結婚はいつ始まるのでしょうか?牧師が「アーメン」と宣言したときでしょうか?この世にはどうとでも解釈できることがらがいろいろあります。
しかし、「人が結婚しているかしていないか」ということはそうではありません。結婚は社会的なことがらであり、役人や法律家や結婚している本人がちゃんと知っていることです。人は結婚しているかしていないかのどちらかです。私は牧師としてたくさんの夫婦の結婚式の司式をしてきましたが、「結婚した」のは一回だけ、自分の結婚だけです。結婚式を司式するときに、結婚するのは私ではなく、結婚しようとしている夫婦です。私は彼らが互いに相手を結婚相手として受け入れ、結婚の責任と義務とを担う意志があるかどうか、彼らにたずねます。もしも彼らがそうする意志がある場合には、彼らは結婚したのです。牧師としての私の責任は祈ることであり、結婚式のあとで賓客を祝会のほうへと導くことです(もしも結婚式のときに「花嫁ミサ」を執り行わない場合には)。「同棲」は、それがたとえ社会制度的に認められている場合であっても、クリスチャンにとっては結婚前の性的関係にほかならず、罪なのです。

この小文の目的は、聖書が「結婚前の性的関係や同棲や結婚」について何を教えているか、はっきりさせることでした。こうした問題に関係して実際に起きてしまっている「混乱」に対してどのように対処していくべきかについては、また別に考える必要があります。こうした「混乱」を悪化させたのは、フィンランドの教会内にあるこのテーマに関する間違った教えです。「聖書によれば結婚前の性的関係は間違ったことであり罪である」ことを知っている人が今やいったいどれほどいるでしょうか。

主イエス様が罪人たちに対して、とりわけこの問題の領域で間違った道を歩んでいた人たちどのような態度を取られたか、ここで思い起こしましょう。いろいろな男たちにもてあそばれた女性がファリサイ派の家におられたイエス様のみもとに来て、それまでの自分ののろわれた人生と間違った生き方を涙と共に注ぎだしました。イエス様は彼女がそうするままになさいました。そして彼女を追い払うようなことはなさいませんでした。

「そして、(イエス様は)その女性に、「あなたの罪[5]は赦されました[6]」と言われました。すると同じ食事の席に連なっていた者たちが心の中で言いはじめました、「罪[7]を赦す[8]ことさえするこの人は、いったい何者だろう」。しかし、イエス様は女性にむかって言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです[9]。平和の中に行きなさい」。」
(ルカによる福音書7章48~50節)

以下の註は訳者によるものです。
[1] ここまでは複数形です。
[2] 「妬み」を直訳すると「悪い目」です。妬みの心は確かに目つきを悪くしますね。
[3] 「マラコイ」は男性の同性愛での受動的な役割の側を指します。
[4] 「アルセノコイタイ」は男性の同性愛での能動的な役割の側を指します。
[5] 複数形。
[6] 受動態完了形。
[7] 複数形。
[8] 現在形。
[9] 完了形。