2008年9月3日水曜日

マルコによる福音書について 1章1~12節

時は満ちた

マルコによる福音書1章

福音書の見出し 1章1節

マルコによる福音書は単純にしかも当時としてはめずらしい仕方で始まります。福音書の最初の節は福音書全体の見出しでもあるのです。そこでは、キリストの死と復活の時にようやくあきらかにされるべく創造の余地を残して伏せられていたことがらが、直接に語られているのです。それは、ナザレ人イエスが「キリスト」であり「神様の御子」でもある、ということです。福音書の使命はキリストの福音、喜ばしきメッセージについて語ることです。

「福音」という言葉にはたくさんの意味があります。私たちはマルコによる福音書とかマタイによる福音書などという表現に慣れています。しかし実はただひとつの福音があるのです。それは神様から人々へのメッセージです。新約聖書では福音はマタイ、マルコ、ルカやヨハネによって語られています。それぞれの福音書の視点はお互いに異なっていますが、メッセージはすべてに共通して「罪人たちに向けられた神様からの喜びの便り」です。


洗礼者ヨハネの説教 1章2~8節

新約聖書の魅力的な登場人物たちの中でも洗礼者ヨハネは見るものの目を釘付けにするような存在です。ヨハネの容姿も説教も旧約聖書の預言者たち、とりわけエリヤを思い起こさせます。洗礼者ヨハネの生活は厳しい節制と質素に貫かれていました。そしてこのような生活を送っている者にふさわしく、彼の説教もまた厳しさにみなぎっていました。その説教は大勢の民衆をひきつけました。洗礼者ヨハネについては福音書記者のほかにも当時のユダヤ人歴史家ヨセフスもまた書き記しています。イエス様の多くの弟子たちはもとはヨハネの弟子であったことを私たちは知っています。同様に、ヨハネの弟子たちは後にキリスト教会と競合するようなグループを形成し、「ヨハネが来るべきキリストであった」と信じていたことも、知られています。

マルコによる福音書は他の福音書と同様にヨハネ自身にはさほど注意を払わずに、むしろヨハネがキリストの先駆者であり新約と旧約の間のつながりを示している点に注目しています。イエス様の活動は旧約聖書がすでに語っていた神様の活動における「新しい局面」を意味していました。これを示しているのがまさしくヨハネの登場でした。彼はイザヤ書(40章3節)やマラキ書(3章1節)が予言していた、偉大なる主の到来を告げる使者なのです。神様の約束された救いのみわざはヨハネの活動をもって実現し始めました。ヨハネの宣教は厳しい悔い改めの説教でした。その影響によって民は自分の罪を告白し、その印として洗礼を受けました。ヨハネの洗礼は罪の赦しを保証するものではなく、父と子と聖霊の御名によるものでもありませんでした。それは罪の告白であり、神様の憐れみに寄り頼みつつ神様の御手に自分をゆだねることでした。それと同時に、神様がこの世の出来事の推移に対して革新的にかかわりをもって活動されることをも民は望んでいました。


イエス様の受洗と試練 1章9~12節

マルコはイエス様がどのようにヨハネから洗礼を受け、その後どのような試練にあわれたかについて飾り気なく語っています。イエス様が洗礼を受けられたのは非常に不思議なことです。ヨハネの洗礼は罪の告白を意味し、また神様の裁きの下に服することでもあったからです。他の福音書ではヨハネはイエス様が彼から洗礼を受けようとするのを妨げようとしたとも語っています。ともかくもイエス様が洗礼を受けられた瞬間に何か決定的に新しいことが起こりました。天が大きく開き、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に降られ、神様の声が皆の前で証して「あなたは私の愛する子、あなたは私の心に適っている」という御言葉を告げたのでした。このようにマルコによる福音書の読者はすでにこの段階で、当時その場にいた人たちにとっては想像の域を出ずまた後でも人々の間で意見が対立することになる「ことがら」を知ることができます。すなわち、イエス様はたんなる人間ではなく、神様の御子であり、神様の権威に基づいて御父から与えられた使命を果たすためにこの世に来られた、ということです。

初期のキリスト教会の中には、「イエスははじめから神の子だったのではなく、神が彼を受洗の時に養子としたのだ」と教える者たちがいました。この聖書の箇所について今でもこのような説明を支持する聖書学者が多いです。しかし、聖書に書かれている以外のことをテキストから無理やり「深読み」しないことが大切です。ヨハネによる福音書の1章で「キリストは時の始まる前からすでに存在しておられた」ことが語られています。

イエス様の受洗についての大切な点は、「神様の御子が神様の御前で罪を告白された」ということです。「唯一の罪なきお方である神様の御子がヨハネの洗礼において私たちの罪の重荷を御自分の上に担い、それと同時に私たちの罪過についての責任を引き受けてくださった」と私たちは信じます。ここに福音の核心があります。すなわち、罪のないお方が罪人となられ、罪人である人間がこのお方のおかげで罪のない存在になるのです。
イエス様の試練についてはマタイやルカによる福音書により詳しく語られています。神様の多くの恵みの約束はほかでもない「荒野」にかかわっており(たとえばイザヤ書35章)、イエス様の受けられた40日間の試練の期間は、疑いなくイスラエルの民の40年間にわたる荒野での旅を反映しています。イスラエルの民が試みに負けたのとは異なり、イエス様は御父様に対して忠実を貫かれました。