2008年11月17日月曜日

マルコによる福音書について 4章13~23節

たとえの説明 4章13~20節

弟子たちは今やっとたとえの説明を聞くことができます。たとえのキーポイントは、「蒔かれる種は神様の御言葉だ」ということです。この鍵が見つかりさえすれば、後は説明の必要もなくたとえ全体の意味が明らかになります。種は神様の御言葉であり、さまざまな土地はさまざまな人々をあらわしています。種のさまざまな成長の仕方は、神様の御言葉がさまざまな仕方で人の中で影響を与えることを意味しています。

道端に落ちた種は、聞く耳を持たない聴衆に語られた神様の御言葉のようなものです。彼らは御言葉を聞きはするものの、それに気にも留めません。サタンが御言葉をすぐに取り去ってしまうので、それが「芽を出す」暇もありません。聞かれたと思ったらすぐに忘れれてしまいます。神様の福音が彼らの心に触れることもありません。

岩場では種はすぐに芽を出しますが、太陽に照らされて乾ききり、実をならせるにはいたりません。ここで描かれているのは、神様の御言葉を喜んで受け入れるものの、それをあっという間に捨ててしまう人たちのことです。彼らが御言葉を捨てる理由として、イエス様は困難や迫害などの外面的なことがらを挙げておられます。もちろん人間の外側ばかりではなく内側にも御言葉を捨て去る原因が見出せます。多くの人はいともたやすく疲れ果て、もう神様の福音を必要とはしなくなるのです。

茨の茂みに蒔かれた種は芽を出し、長く生きます。ただし、この芽にはひとつ一番大切なものが欠けたままです。それは収穫の実です。実を得るためにこそ種は蒔かれたのです。このような土地は、御言葉を受け入れてその生徒ととして留まりはするものの、最終的にはこの世的なものに飲み込まれてしまう人たちを描いています。富や心配やさまざまなこの世的な欲望が人を振り回すため、その人は実がならないままに終わるのです。

よい土地に落ちた神様の御言葉の種はちゃんと本来の目的を果たします。人は神様の御言葉の忠実な生徒として最後まで留まりつづけます。神様が御言葉について説教させるのは、このことが御言葉を聴く人のなかで起こるようにするためです。他のケースでは、御言葉を教えたとしても、聞き手の人にとっては無意味で無駄なことになってしまいます。


福音を公に 4章21~23節

前のたとえは、「どうすれば神様の御言葉を正しく聴くことができるか」についてのイエス様の教えが関係しています。神様の御言葉の光を心にいただいた者は、それを隠していてはいけないのです。ロウソクに火を点した者は、そのロウソクを入れ皿で覆ったりはしません。火のついたロウソクは、部屋全体を明るくするように、できるだけよい場所に置かれるものです。これと同じように、神様の御言葉は世界全体に向けられています。御言葉には恥ずべきことや隠すべきことは何もありません。マルコによる福音書の続きの箇所もまたこのことに関係しています。御言葉は注意深く聴かれるべきものだし、さらに先へと伝えられていくべきものです。先へと伝えていくべき御言葉が多ければ多いほど、神様はそれだけ多くの御言葉についての理解力を、御言葉を伝える人に与えてくださいます。それにひきかえ、御言葉を恥じ覆い隠す人からは、その人がもっていたわずかばかりの御言葉を理解する力も奪われてしまいます。