2008年10月13日月曜日

マルコによる福音書について 2章18節~3章6節

新しい信仰、新しい習慣 2章18~22節

ユダヤ人たちにとって「断食」は信仰生活の中心的な位置を占めていました。断食は、罪の告白、祈り、貧しい人の援助などとあいまってなされました。断食のやり方や習慣には、ユダヤ人のグループによってかなりのばらつきがありました。イエス様とその弟子たちは断食しませんでした。そして、このことは周りにいた一部の人たちの関心を集めました。

断食について質問を受けたイエス様の答えは次のようにまとめることができます。
「古い部分と新しい部分を集めてそれらを一緒に結び合わせることはできません。古い服を新しい布によって修繕はできないし、新しいぶどう酒を古い皮袋に注ぎいれることはできません。」
断食の問題を解く鍵は、「イエス様が共におられる」という点にあります。イエス様が「御自分のものたち」と共におられるときには、彼らはお祝いの席に連なっているのであり、お祝いの最中には断食などはしないものです。イエス様が共におられない場合には、状況がまったく異なります。


安息日を破るふたつの犯罪? 2章23節~3章6節

イエス様がこの世で生きておられた時代には、ユダヤ人たちのもっともよく知られている宗教的な特徴は、割礼[1]であり、安息日の遵守でした。安息日(土曜日)はモーセの律法によれば「休みの日」です。その日を仕事を行うことによって破ったり汚してはいけないのです。この規定をめぐって、「安息日に何をしてよく何をしてはいけないか」について多くの解釈が生まれました。前述したように、これらの解釈の背景には、神様の律法を破らないようにと、極度に細心の注意を払うという姿勢があります。今ここで扱っている福音書の箇所で、イエス様はふたつの主要な解釈に反して活動されたため、律法学者の怒りを買いました。

この箇所の前半で、イエス様の弟子たちは麦畑を通り過ぎるときに麦の穂をつんで手でもみ、実を食べて飢えをしのぎました。この行為は決して「盗み」ではなかったものの(申命記23章25節)、「仕事」として解釈される行いでした。先生は生徒たちの振る舞いについて責任を取るものです。それで、ファリサイ人たちはイエス様にくってかかりました。イエス様は旧約聖書の中にある例をもちだして(サムエル記上21章)、より普遍的な教えを与えられました。
「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではありません。休みの日はふつうの場合でも神様から人々への賜物なのであって、人を束縛する手かせ足かせなどではありません。さらに、人の子は安息日の主なのです。」
イエス様を犯罪者として責めはじめたとき、実は、律法学者たちは「越権行為」を犯してしまっていたのです。

この箇所の後半は、病人の癒しについて語っています。癒しも「仕事」としてみなされるべきものでした。それで、イエス様が何をするか、周囲は厳しく見つめていたのです。伝統的なユダヤ人のやり方に従って、イエス様はファリサイ人たちとヘロデ党の人々に対して、直接教える代わりに「質問」を提示なさいました。その質問は答えるにはあまりにも難しく、彼らは黙っていました。それから、イエス様は病人を癒されました。そして、それがどのような結果を招くか、まったく気にも留めませんでした。病人の癒しを通じて、ファリサイ人たちの怒りが次第につのりはじめました。この怒りが、最終的にイエス様を十字架につける結果を招きます。マルコによる福音書はイエス様の死をすでにここで予告しているのです。この福音書が「長大な序章を備えた(イエス様の)受難史」であるといわれるのは、このためでもあります。
[1] 割礼(かつれい)とは、男子の性器の包皮を切除することです。創世記17章9-14節には、アブラハムと神様との間の永遠の契約として、男子には生まれてから8日目に割礼を行うべきことが記されています。