2008年1月7日月曜日

「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?

たとえばコリントの信徒への第1の手紙12章には「御霊の賜物」あるいは「恵みの賜物」についての教えがあります。今回はこの「恵みの賜物」について学びたいと思います。

「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?

ヤリ・ランキネン


私たちは聖書を大切にしたいと思っています。聖書は「恵みの賜物が存在する」と言っています。神様の御霊は私たちルター派の信仰にとってなじみの薄い賜物や必要ないと思われるような賜物も与えてくださいます。もしも私たちが聖書的であるならば、私たちはこのような賜物を否定したり軽んじたりはしません。またこれらの賜物を用いることに反対したりもしません。

一方では、恵みの賜物を間違って用いないように忠告することも「聖書的」です。恵みの賜物を重視しすぎないように忠告することもそうです。聖書は、恵みの賜物自体は認めていますが、それらを間違って用いないように忠告してもいるのです。

ですから、あなたも神様の御言葉を前にして、心を開きなさい。聖書が言っていることを読みなさい。この問題についても実際にはどういうことであるか、聖書に説明してもらいなさい。聖書に反していることは拒絶しなさい。聖書が教えていることを受け入れ身に着けなさい。たとえその教えがあなたにとって新しく、あなたが以前考えていたこととは違っているとしてもです。このように行うのは本当に難しい場合があります。しかし、それは「安全な道」です。神様の御言葉は私たちを間違った道へと迷わせたりはしません。

私たちは皆それぞれ互いに異なっています。信仰を感情に結び付けて、信仰生活の中でのある種の体験の大切さを強調する人たちがいます。信仰にかかわることがらを理性的に考えて、個人的な体験はそれほど求めていない人たちもいます。私たちの人生の背景もそれぞれ異なっているし、今信仰の道のどのような局面を歩んでいるかも、人によって違います。そして、こうした違いは人が恵みの賜物に対してどのような態度を取るかにも影響を与えます。この違いは認めなければなりません。神様の御言葉もそれを認めています。この違いは神様の教会の中の「豊かさ」でもあります。ただし、神様の御言葉に従ってすべての人は信じまた働かなければなりません。


恵みの賜物とは何でしょうか?

恵みの賜物にはいろいろなものがあります。聖書から私たちは多くの例を見出します。病気を癒す賜物、知識を分ける賜物、いつ神様の御霊が話しておりいつ何か他の霊が話しているかを見分ける賜物、異言で話す能力、預言すること、教えること、他の人たちに仕える意欲、教会を指導する能力、自分のものを提供する意欲、貧しい人たちを助ける意欲、などです。これらのものは恵みの賜物についてのいくつかの例です。聖書は恵みの賜物の完全なリストを提供しようとはしていません。神様の教会を築き上げ、それがこの世でその使命を遂行することができるように助ける能力は、すべて「恵みの賜物」だと言えるでしょう。賜物の中には私たちがもともともってはいないものもあります。たとえば異言で語ることです。私たちの創造主が私たちをおつくりになったときに、私たちに与えてくださった賜物もあります。賜物を受けた者はそれを教会に仕えるために利用することができます。そしてそのような場合には恵みの賜物は正しく用いられていることになります。たとえば音楽の才能はこのような賜物です。あるいは指導したり教えたりする能力もそうです。あなたにも賜物がきっとありますよ。それは普通の生活にかかわる地味なことかもしれません。その賜物によって神様の御国の働きに仕えなさい。それが恵みの賜物です。

「恵みの賜物」という言葉自体、それがどのようなものであるかを語っています。それらは人の業績によって分けられたりはしません。もしもそうならそれは業績の報酬になってしまいます。聖霊様はそれらの賜物を御自分のお考えに従って「与えたい」と思われる人にお与えになります。私たちはその神様のお考えを知りません。ですから教会において「誰にどんな賜物があり誰にないか」という基準によって人々に優劣の序列をつけるのはよくないことです。パウロは「神様の御霊は恵みの賜物をそれらを受けるのにもっともふさわしくないような人たちに与えてくださるものだ」と言っています。「神様は教会でほとんど評価されていない会員たちを栄光によって覆い包んでくださる」とパウロは言います。一般に人に重んじられるような「恵みの賜物」のない人たちは実はそれを必要ともしていません。そして彼らは教会で「欠くことのできない存在」なのです(コリントの信徒への第1の手紙12章24節)。


恵みの賜物は正しい信仰を保証するものではありません。

三位一体なる神様が知られていないか、あるいは拒絶されているところでも、異言で話したり病気が癒されたりする現象がおこることがあります。悪魔も奇跡を行うことができるからです。悪魔は自分の働きが神様の働きに似ているところでこそもっとも巧妙に人々をたぶらかすことができます。また、ときには神様は奇妙なやり方で働かれることがあります。人々が幾つかの点で御言葉に反して信じたり生活したりしているところにも神様は恵みの賜物をお与えになることがあるのです。コリントの教会はこのよい例です。パウロはコリントの教会にはいろいろな恵みの賜物がたくさんあることをほめています。そして、それらの賜物が神様からのものではないとは言っていません。しかしながら、パウロはコリントの教会が神様の御言葉から逸脱していることがらを、はっきり問題にしています。そして「教会がこれらの問題について悔い改めなければ、主が再び帰ってこられるときに裁きを受けることになる」と警告しています。「恵みの賜物があらわれるところではすべてが正しくよい」などという考えに目をくらまされてはなりません。あるいは「神様は恵みの賜物を与えてくださったのだから、何か御言葉に反したことを行っていてもそれを神様は認めてくだるだろう」などと考えてもいけません。また、恵みの賜物があらわれているからという理由で、幼児洗礼を認めない再洗礼派の人たちと共に活動することがあってはなりません。彼らには神様が生み出してくださった恵みの賜物があるかもしれませんが、彼らは洗礼について神様の御言葉に反して教えています。「もしも恵みの賜物が私たちの目をくらませ神様の御言葉に反して教えたり活動したりするようになれば、私たちは裁きを受けることになる」と神様の御言葉は私たちにも警告しています。


恵みの賜物は真の信仰の前提条件ではありません。

「恵みの賜物があるところにのみ、あるいは何か恵みの賜物をもっている人にのみ、真の信仰がある」というわけではありません。十字架につけられたイエス様についての福音には何も付け加える必要がありません。福音は恵みの賜物を必要とはしていません。救われて神様の子供として生きていくためには「福音」だけで十分なのです。このことを、とりわけ神様が恵みの賜物を分け与えなさっているところで、強調しなければならないでしょう。また、ある種の恵みの賜物をもっていない者が、周りからそれをもつようになるようそれとなく要求され、自分をだめな存在だと思い込んでしまうような環境でも強調するべきでしょう。たとえあなたが恵みの賜物を何ももってはいなくても、またそれについて何も知らなくても、あなたはイエス様を信じてよいのです。そして、十字架につけられた主イエス様への信仰の中に、あなたは「神様の子供として生きて、天国に入るために必要なすべてのもの」をすでにもっているのです。

聖書は「恵みの賜物を求めなさい」と命じています。聖書は単純な真理を言っています。すなわち、恵みの賜物をこいねがう者はそれをいただくのです。求めない者は得ません。この「求めること」は、強制ではありません。神様や他の人たちが強制するものではありません。それはへりくだった熱心な祈りです。私たちは恵みの賜物を求めてきたでしょうか?これからは信仰者の集まりで神様が私たちに教会が必要としている賜物を与えてくださるように声に出して祈るようにしたらどうでしょうか?こうすれば、恵みの賜物が教会の信徒たちにとって「自然な」ことになるでしょう。そして、祈りは恵みの賜物を正しく用いる道を開いてくれるでしょう。また、祈りは自分が祈っている内容に深くかかわっていくことでもあります。もしも私たちが恵みの賜物を神様から願い求めたのならば、私たちは「そんな賜物はいらない」とは言えないし、「その賜物を用いたくない」とも言えなくなります。私たちが本当に必要としていると神様が御存知なものを、神様が私たちに与えてくださるように願い求めるのが、知恵あるお祈りだと思います。その賜物は、もしかしたら自分では考えもしなかったようなものであるかもしれません。

聖書は恵みの賜物を用いないで隠しておくことを禁じています。ですから賜物を用いなさい。たとえあなたが自分の賜物を恥ずかしく思っていたり、他の人たちがそれを評価していなくてもです。神様は賜物をむなしくお与えにはなりません。教会はそれを必要としているのです。

私たちの信仰の中心は「ゴルゴタの十字架」です。そこだけに頼り避難することを学びなさい。あなた自身に頼ったりしないように。神様があなたの中で働いてくださっていることに気が付いて、それを誇ったりしないように。自分が受けた恵みの賜物やそれを用いることに振り回されないように。これはなかなか難しいことです。だから、学ぶ必要があるのです。ゴルゴタの十字架こそが決して揺るがない唯一の基です。自分の中に何もよいものがないと思ったり、恵みの賜物が弱ったり消え失せたりするような場合でも、ゴルゴタの十字架は立ち続けています。そのようなときでも、ゴルゴタの十字架には、私が救われるために、また神様の子供として生きていくために必要なすべてのものが含まれています。もしも私たちの信仰が何か他のものに基づいている場合には底が抜けてしまいます。しかもあっという間にあっけなく。

もしも恵みの賜物が信仰生活を支配するようになって、十字架以外の何かが一番大事なものになってしまうとき、恵みの賜物は間違って用いられています。実際にそうなる場合があるのです。その一方では、多くの人にとって恵みの賜物がその人とイエス様との関係を新たにし、イエス様の十字架を前よりもいっそう愛しいものにしてきたことも事実です。

パウロはコリントの信徒への第1の手紙の中で「恵みの賜物はそれ自体に価値があるわけではなく、それらのなかにまたそれらを通して、「愛」が、イエス様が私たちを愛してくださったのと同じ愛があらわれる場合には価値があるのだ」と教えています。人は恵みの賜物を間違って用いることで、他の人たちを自分より下に圧迫したり忘れ去ったり、自分の利益を求めたりするようになります。しかしそれは、パウロによれば、誰かが時々思い出したようにドラムを打ち鳴らすのと同じことです。多くの人はドラムの音を聞きますが、何の役にも立ちません。うるさくて耳が痛くなるだけです。

あなたに与えられている賜物はあなたがよりいっそうしっかりとゴルゴタの十字架に頼り避難するように導いてくれますか?その賜物は他の人たちをも十字架につけられた主のみもとに導きますか?あなたはその賜物によって愛していますか?あなたはその賜物を他の人たちの状態をよりよくするために用いていますか?もしもあなたがその賜物をそのように用いてこなかったのならば、悔い改めなさい。あなたはその賜物を隠してはいけません。これからは、あなたがその賜物によってイエス様の十字架を愛しその栄光を輝かせることができるための技能と謙遜を神様から願い求めるようにしなさい。取るに足りないと感じられる賜物によっても、十字架を愛してその栄光を輝かせることができます。そのとき、その賜物は最高に価値があるのです。それとは逆に、際立つ立派な賜物が何か他のことのために用いられることもあります。そして、そのような賜物には何の価値もありません。

へりくだって用いられた賜物は教会を最良のやり方で築き上げます。傲慢や自分を他の人の上に置く態度は教会をあっという間に崩壊させます。

「聖霊様をいただいているクリスチャンは彼らがクリスチャンである証として何か恵みの賜物をもっている」という教えがあります。そして「その賜物とは異言で話すことだ」と主張する人が多くいます。「聖霊様をまだいただいていない人たちは神様の御霊をいただけるようなレヴェルにがんばって到達しなければならない」という教えも聞かれます。このような教えを私たちは受け入れません。なぜなら、聖書はこのようなことを何も教えてはいないからです。すべての「神様の子供」には聖霊様がおられます。人が神様の御霊をいただいている「しるし」は「その人がイエス様を信じている」ということです。聖霊様なしには誰もイエス様を信じることができません。聖書が語っている意味での「御霊に満たされること」というのは「私たちの中にお住みになっている神様の御霊が私たちの中でより大きな場所を支配するようになる」ということです。私たちの中でもこうなるように願い求めましょう。

「神様のもの」として生きることは、力とか奇跡ではなくて、十字架を担うことです。十字架を担うことは、弱さであり、病気であり、難問であり、軽蔑の対象になることであり、期待していた奇跡が起きないことでもあります。「このような人生を送っている人たちは、とくに他の人たちより劣っている神様の子供だ」というわけではありません。神様の御言葉によれば、実は彼らこそ、神様にとって特別に愛らしい子供たちなのです。

恵みの賜物は他の人たちも同じようにするようにいざないます。一方で、それは別の他の人たちを追い払います。私のある友人は人々が異言で話し預言している集会に出くわしたことがあります。そして「もしもイエス様への信仰がこのようなものならば、私は信仰などとはかかわりたくない」と言いました。このような集会は周りの人にこうした反応を惹き起こす可能性があるのを、パウロも知っていました。それゆえ、彼は「恵みの賜物を熟慮した上で用いるように」と命じているのです。私たちは誰もイエス様のみもとから追い払ってはいけません。それゆえ、ある種の賜物は細心の注意を払いながら用いるべきですし、ときにはまったく用いないでおくことも必要です。まずはじめに人が賜物に慣れて怖がらずにすむように賜物についてちゃんと話し教えるべきです。教えた後ならばそれらを用いてもよいのです。

神様は聖書で言われているとは反対のことをお話にはなりません。預言は書かれている神様の御言葉を覆すことはできません。聖書に反した預言があれば、それは神様からのものではありません。しかも、信仰者とか信頼できる聖書の教師と私たちがみなしている人でさえ、そのような「預言」をすることがありえます。私たちの中にある罪はこのような形でもあらわれるのです。そのような偽りの「預言」を引き合いに出して聖書に反した行いをする者は人間を神様の地位にまで引き上げているのです。そして、天国への道からさまよい出る危険な状態に陥ります。

聖霊様は聖書の御言葉の中におられ、その中で働かれています。それゆえ、神様の御霊が生み出してくださった真の恵みの賜物は人々をよりいっそうしっかりと御霊が住んでおられる神様の御言葉へと結びつけるものです。「あなたにとってその賜物が神様の御言葉をよりいっそう愛すべきものとしているかどうか」ということは、その賜物が神様からのものであるかどうか、賜物が正しく用いられているかどうか、見分けるよい指針になります。賜物が人を神様からどんどん遠ざけてしまうというケースもあるのです。そのような「賜物」は神様からのものではありません。また、神様の与えてくださった賜物が御心とは異なるやり方で間違って用いられているケースもあります。