2008年8月21日木曜日

マルコによる福音書について 序 その2

福音書の特徴

マルコによる福音書は「受難のキリスト」について語っています。十字架につけられた神様の御子についての話しが当時の古代世界の人々をどれほど傷つける受け入れがたいものだったか、私たち現代人にはとうてい理解しがたいことです。十字架刑は考えうる限り最も屈辱的な死に方でした。初代教会の多くのクリスチャンがイエス様の十字架を恥じたのは、無理もありません。ところが、こうした恥じはマルコによる福音書には痕跡すらありません。福音書の約半分はイエス様の受難について語っています。イエス様が捨て去られることを暗示する暗雲はすでに福音書のはじめのほうに見えます(たとえば3章22~30節、6章1~6節)。イエス様がこの世に来られたのは、周りから仕えられるためではなく、辱めを受け十字架で殺されるためでした。このように、福音は十字架の神学に基づいて読まれるべきなのです。

マルコによる福音書のもうひとつのはっきりとした特徴は、いわゆる「メシアの秘密」と呼ばれるものです。イエス様は御自分が本当は誰であるかについて決して誰にも告げないように、悪霊に対してばかりではなく御自分の弟子たちに対しても命じられました。イエス様の真のお姿はすでに洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった瞬間に顕示されましたし(1章11節)、わずか少数の目撃者のいる中で「栄光の山」においても示されました(9章7節)。これらの例外的な時を除けば、イエス様がキリスト(つまりメシア)であることは長い間非常に注意深く隠されていました。どのような権威によってイエス様が活動されているか、いろいろな人たちが時には怪しみつつまた時には怒りながら問いただしました。しかし、答えを得ることはありませんでした。これはいまだにマルコ福音書の研究における難問です。ともかく、「メシアの秘密」は祭司長たちと全議会の前であきらかにされます(14章55節以降)。そこでイエス様は大祭司の質問に明確にお答えになりました。イエス様は神様の御子でありキリストなのです。このことをイエス様の死の際にローマの百人隊長もまた公に告白します(15章39節)。おそらく「メシアの秘密」によって福音書は私たちに「イエス様が真のキリストであることは、辱めを受け私たちのために十字架にかけられたお方としてのみはっきり示される」ことを教えているのでしょう。多くのユダヤ人たちはキリストが政治的な解放者とか目に見える具体的なかたちの神の国の創始者になってくれることを勝手に期待していたのです。このように「メシアの秘密」もまたマルコによる福音書の十字架の神学の一部なのです。

マルコによる福音書の3番目の特徴は、福音書がイエス様の奇跡について非常にたくさん言及していることです。これは、人々が奇妙な出来事についてなら喜んで読むからだ、というわけではありません。旧約の民の只中で偉大な奇跡を行ってくださった同じ神様は、奇跡が再び繰り返される「新しい救いの時」がこれから到来することを聖書の中で約束してくださったのでした(たとえばイザヤ書35章)。イエス様の働きの中で旧約聖書に語られている多くの奇跡が繰り返されました。それらの奇跡は「ナザレのイエスは神様の権威に基づいて活動し、御自分の民を新しい時代に移された」ことを示していました。