2008年9月15日月曜日

マルコによる福音書について 1章14~28節

福音の始動 1章14~15節

ヘロデ王は洗礼者ヨハネを投獄し、後に殺させました(6章14~29節)。しかし、ヘロデ王は「神様の声」を沈黙させることはできませんでした。ヨハネが黙すると、今度はイエス様が活動を始められたのです。イエス様の教えの中には、人々を悔い改めへと導くことを目標としている「預言者たちの説教」が響いています。そこにはしかし、まったく新しい面があらわれています。すなわち、今や「神様の時」は満ちました。神様はまもなく革新的に公然と活動されます。神様の御国はこのように近くに来ているのだし、今までの長い間にわたる「待ちの時期」は過ぎました。「時が満ちる」という話は何百年もの間イスラエルの人々が待ち続けていたことがらに関係しています。預言者たちは大胆に人々の前に現れ、キリストと主の御国にかかわる神様の約束を伝えてきたのです。今やその約束が実現する時が来ました。イエス様の説教がどれほど力強く、豊かな内容に満ちていたのか、私たちの理解を超えています。


最初の弟子たち 1章16~20節
 
イエス様は人生の大部分をガリラヤで過ごされ活動されました。そこで最初の弟子たちをも召されました。イエス様がいかに率直に「ある人々」を御自分に従うように召されたかについて、福音は語っています。弟子たちはそれまでの自分の職業をその場で捨てました。猟師であった彼らの網は他の人にゆだねられました。イエス様のペルソナには、弟子たちをイエス様と行動を共にさせるような理解しがたい何かがあったのです。こうしてペテロやアンデレ、またヤコブとヨハネはイエス様と共に出発したのでした。彼らは、イエス様に最も近しい弟子として、後の教会が賞賛し模範とするような「召し」を受けたのです。12人の使徒たちには、はっきりとした特別な地位がありました。


カペルナウムでのイエス様 1章21~28節

ガリラヤ地方に位置するカペルナウムという町のシナゴーグ(集会堂)でイエス様は、マルコによる福音書が記している最初の「しるしのみわざ」を行われました。ユダヤ人たちには唯一の神殿がありました。それはエルサレムにありました。そこでのみ神様に犠牲をささげることが許されていました。エルサレム神殿のほかに、あちこちにたくさんのシナゴーグが存在し、そこでは安息日ごとに「律法と預言者」[1]が読まれました。ユダヤ人の男は、聖書の箇所を読んでその内容を説明することが許されていました。カペルナウムのシナゴーグを訪れたイエス様はこのやり方を利用したのです。イエス様の説教は聴衆に大きな驚嘆を惹き起こしました。そこには律法学者たちの教えとはまったく異なる権威が反映していました。イエス様が律法学者の伝統には属していないことは、聞き手にとってあきらかでした。さらに大きな驚嘆を巻き起こしたのは、説教と関係して、もうひとつの権威が示された時でした。すなわち、イエス様は汚れた霊を人から追い出されたのです。

汚れた霊、すなわちデーモンを人から追い出すことは、ユダヤ教文献には遅くとも紀元前200年前には現れ始めます。汚れた霊とは、神様の敵サタンが人の中に送り込んだものです。イエス様の生きておられた時代には、霊を操ることを職業とする者たちが大勢いました。そしてその大部分はユダヤ人であり、ギリシア人やローマ人にはあまりいませんでした。そのようなユダヤ人たちはその秘術を持ってローマの指導者層の人々、とりわけ、後に皇帝となるティトゥス・ヴェスパシアヌスやその諸侯を驚嘆させました。

イエス様が汚れた霊に取り付かれた男と出会ったとき、力と力の真の戦いが起きました。イエス様はイエス様の真の本質を見抜いたデーモンを沈黙させました。デーモンはイエス様の厳しい命令に従うことを余儀なくされ、驚くべきことに、取り付いていた男から出て行かざるを得なくなりました。ここでの福音の核心は、イエス様の「権威」にあります。それを反映しているのはイエス様の力強い説教であり、とりわけデーモンを追い出されたことです。人はサタンを軽蔑したりそれに反抗したりはできません。それができるのは神様のみです。イエス様がデーモンと戦うという大胆な行動を取ったのはどうしてでしょうか。そして、デーモンがイエス様に負けて「2番」に甘んじたのは、どうしてでしょうか。答えはひとつだけです。すなわち、イエス様は神様の権威によって活動されたのです。この出来事が生んだイエス様についての評判はガリラヤ全体に広まりました。

[1] 旧約聖書のことをさす。