2008年10月1日水曜日

マルコによる福音書について 2章1~12節

これから第2回目の集まりのためのテキストがはじまります。


「あなたの罪は赦されます。」

マルコによる福音書2章1~3章6節

イエス様の権威の大きさ 2章1~12節

すでに1章で私たちはイエス様の権威についての問題に出会いました。イエス様はどうして病人を癒すことができたのでしょうか?イエス様はどのようにしてサタンの不遜をくじき、汚れた霊を追い払うことができたのでしょうか?2章のはじめはこの問題をさらにつきつめています。イエス様は再びカペルナウムで教えていました。イエス様のいた家の周りにはたくさんの人たちが集まっていました。家の中にはもはや場所がなく、入り口に近づくことさえかないません。窮地に立たされたある人たちは極端な手段に出ました。当時の家の建物の屋根はとてもこわれやすいものでした。それを利用して、イエス様の頭上で突然何かが起こりはじめました。屋根がはがされ、そこにできた穴からイエス様のいるところへと身体の麻痺した人がつり下ろされてきたのです。イエス様はすぐにその男の人に「罪の赦し」を宣言しました。その場にいた律法学者たちにとってこれは認めがたいことでした。「ひとり神様のみが罪を赦すことがおできになる。もしも人間が「罪の赦し」を宣言するならば、それは神様を侮辱する行為だ。」というわけです。イエス様は律法学者たちの心の中の批判を読み取り、それに対してひとつの質問を投げかけることで応答されました。イエス様は彼らが答えることを期待していたわけではありません。イエス様の言われたかったことは、「もちろんこの世の中には大言壮語がまかり通っている。しかし、それに付随する「大きなわざ」がなされることはほとんどない。」ということです。イエス様が身体の麻痺した人を立ち上がらせ健康にして自分の家に帰らせたときには、皆はさらに大きな驚嘆に包まれました。

このようにイエス様の権威は「秤にかけられた」のでした。「ただ神様のみが罪を赦すことがおできになる。ただ神様のみが身体の麻痺した人を癒すことがおできになる。もしもイエスが罪の赦しを宣言することで神様を侮辱したのなら、病人はどうして癒されたのだろう?神様は御自分を侮辱する者が大いなる奇跡を行うことをお許しにはならないはずではないか?しかし、もしもイエスが神様の権威によってその人の罪を赦したのであれば、この人はいったい誰なのだろうか?」

マルコによる福音書ではじめて「人の子」という言葉がここで登場します。新約聖書ではこの言葉はイエス様についてのみ用いられています。しかも、ほとんどの場合イエス様御自身がそれを口にされています。この言葉をイエス様以外の人が用いる例外は、ステファノ(使徒の働き7章56節)と、不思議そうに尋ねるユダヤ人たち(ヨハネによる福音書 12章34節)ぐらいしかありません。「人の子」の背景には、ダニエル書にある「天からやって来る大いなる支配者」についての言及が関係しています。そして、この「支配者」は、神様がお立てになった者として、すべての国民をたゆまずに支配しています(ダニエル書7章13~14節)。