原罪 あらゆる罪の源
パシ パルム
「悪い人などはいない。ある人はほかの人より弱いだけだ」とある詩人は言いました。今でもこうした考えに同調する人は多いようです。赤ちゃんの洗礼式に参加する人の多くは、だっこされている赤ちゃんの「罪深さ」について話す牧師の言葉に戸惑いを覚えます。自分が受け入れた「宗教的な教え」に従って、自分を「罪のないよい存在」に変えようといくら努力してもうまくいかないために、絶望してしまう人もいます。これらの例は、原罪についての聖書の教えが理解されていないか、あるいは認められてはいないことを示しています。
最初の人間たちの堕落の結果として、人間全体が罪の支配下に陥ってしまいました。人は皆、このように霊的に死んだ、不信仰と悪い欲望にまみれた状態の中へと生まれてきます。つまり、人は神様とその御心に反抗する態度をもって、生まれてくるのです。このような状態にある人間は滅びるほかはありません。ところが、人が洗礼と信仰を通して新しく生まれる場合には話が変わってきます。クリスチャンは、「罪の赦し」を信仰によって「自分のもの」としており、洗礼においてそれを賜物として与えられているがゆえに、原罪のもたらす「罪悪感」から解放されています。しかし、この世で生きている限り、原罪による「腐敗」はクリスチャンの中にも依然として残存し続けます。そして、原罪による腐敗は、さまざまな「行いによる罪」として、日常生活の中ですべての人の考えや話や行いの中に例外なく噴出してきます。
原罪を否定するいくつかの意見があります。
1)人は根本的には悪ではありえない。なぜなら、人は多くの自己犠牲的なよい行いをすることができるからだ。
2)聖書は原罪について何も言っていないではないか。原罪についての教えは、教会が「幼児洗礼」を正当化するために捏造したのさ。
3)もしも神様が「人が自分で行ったわけではないこと」のゆえに、その人を裁くというのなら、神様は公正ではない。
これらの主張に対する答えは次のとおりです。
1)人は神様の御創りになった存在であり、もともとは(神様にそのままで受け入れていただけるような)「義」なる存在でした。人間全体の罪の堕落の後も、人はどうにかこうにか「外面的な義」(たとえば、仕事をし、家族を養い、困っている人たちを憐れむことなど)を実現することができます。しかし、人の中には、神様の御前にして(自分を正当化できるような)「心の義」はないのです。
2)「聖書には原罪についての教えがない」というのは正しくありません。なるほど聖書は「原罪」という言葉を用いてはいませんが、その存在を前提としています。たとえば、マタイによる福音書15章19節、ヨハネによる福音書3章6節、詩篇51篇7節、ヨブ記14章4節、ローマの信徒への手紙3章9~12節、5章18~19節、エフェソの信徒への手紙2章1~3節を読んでください。
3)神様は公正なお方です。それに対して、人が腐敗しているのです。犯罪者が裁判官を批判する立場に立つのは不可能です。どんなにそうしたいと思ってもです。人はアダムと同じ状況に置かれた場合には、誰でも皆アダムと同じように行動したことでしょう。私たちはこの問題に関しても「聖書の生徒」であり続けたいと思います。
4)だっこされている赤ちゃんのことを考える場合には、「罪はたんに行いのみではない」ことを思い起こしましょう。行いは考えから出てきます。そして、考えもどこからか出てくるのです。人は、悪い行いをするから、罪人なのではなく、逆に、人は、罪人であるがゆえに、悪い行いをするのです。