2008年2月4日月曜日

信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?

ヤリ・ランキネン

信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?


子供たちに信仰について長年教えてきた私のある友人はこう言いました、「子供の心はイエス様の種まきのたとえ(マタイによる福音書13章)にでてくる「よい土地」と同じようなものです」。子供は心を開いており、教えられたことを素直に受け入れます。人は成長すると、心を閉じ、信仰の事柄を受け入れるのは、はるかに難しくなります。もちろん、神様に不可能なことは何もありませんが、こうした理由から、まさしく子供たちに神様について話すのは、本当に大切なことなのです。

子供の頃聖書の教えを心に蒔いてもらった人たちの多くは、たとえ大人になってから他の道に迷い込んでしまった場合でも、やがてそれらが間違っていることに気が付いて、信仰の道へと戻ってくることがしばしばあります。もっとも、その人の両親は自分の子供の悔い改めを見ることもなく、子供が不信仰の生活を送っていることを悲しみつつ、先に死んでしまうかもしれませんが。信仰者の家庭に育った子供たちは、信仰の中に活きます。彼らは、信仰の中に生活していない場合でも、「自分のしていることは間違っている」というやましい良心をもっており、何が正しいか実は知っている自分の良心にいつまでも逆らい続けることはできないものです。こういうわけですから、私たちも子供たちに信仰について熱心に教えようではありませんか。

現代の子供たちは、他のいろいろなことをたくさん学んでしまいます。たとえば、信仰の事柄は脇へ追いやられるか、禁じられます。子供の心は何か他のものでいっぱいになったりします。あるいは、信仰の事柄が作り話や他の宗教とごちゃ混ぜになったりします。とりわけテレビやインターネットなどのメディアが、子供にこのようなことを教えます。


「教える」とは、どのようなことですか?

私たちは子供を教会に連れて行ったり、子供と一緒に夜のお祈りをしたり、子供にときどき神様について話したりします。これらのことは、確かに大切ですが、まだ「教える」ことではありません。もしも子供に算数を教えるならば、子供の脇に座って、子供と一緒に問題を解きます。これと同じように信仰についても教えるべきです。時間を用意し、子供の脇に座り、子供と一緒に神様について話し、子供が理解したかどうか、質問します。

私たちは、息子ユホが学校に通うようになる前に、「十戒と使徒信条と主の祈りを学び覚えることにしよう」とユホと一緒に決めました。私たちは春と夏、何回にも渡って、一緒に座り、これらの事柄を学びました。私はひとつひとつ声に出して言い、息子はそれを繰り返して、暗唱しました。そしてそれから、今学んだことはどういう意味か、話し合いました。このようにして私たちは一緒に、信仰についてさまざまなたくさんのことを考えることができました。息子は注意深く聞き、また質問しました。息子は学び理解したと、私は信じています。息子はまた、父親である私に大切なことを教えてくれることがありました。私たちが第六戒(「あなたは姦淫してはならない」)を学んでいるとき、その命令がどのような意味か息子に尋ねたところ、ユホは少し考えてこう答えました、「もしも結婚して、結婚相手に気に入らないところがあるとわかっても、相手を捨ててはいけない、という意味でしょう」。信仰の大切な事柄を自分の子供に、たとえばこんな風にして、教えてみたらどうですか?少なくとも、たっぷり時間の余裕をとって子供と一緒に信仰について話し合ってください。こうすることで、信仰の事柄が子供にとって、他のことと同様、自然なことになります。


楽しいひととき

フィンランドでは戦時中にこういうことがありました。何人かの従軍牧師たちは、戦地で御言葉と祈りの集いが開かれている間、その場にいる兵士たちが配給のタバコを楽しむことができるよう願い出て、許可されました。そこには深い知恵がありました。私たち両親もそれと似たような次のことをしました。
私たちは、礼拝で説教が始まるときに、息子たちの手にお菓子の箱を渡しました。信仰について説教されている時について「楽しいひとときだった」という思い出が残るのは、大切です。こうすることで、御言葉が心に入りやすくなります。しかし、もしも説教を聞いているときに、苦しい圧迫されるような印象が子供に残るようだったら、逆効果です。

大き目の子供たちが御言葉の説教を聞くように強制することはできません。でも、聞くひとときが楽しくなるように工夫することはできます。お菓子などの手段を少しぐらい使ってもかまわないと思います。どんな理由から御言葉の説教を聞くことになるにせよ、神様の御言葉は子供や大人の心の中で働いてくださいます。


夜の聖書とお祈り

あなた方の家では夜の聖書とお祈りのひとときをもっていますか?それは別段手の込んだものである必要はありません。たとえば、居間か子供部屋で聖書か子供聖書かお祈りの本を読み、主の祈りを一緒にお祈りして、賛美歌を歌います。これらのひとときを通して、イエス様が言われるあの「よい種」が蒔かれるのです。御言葉を子供がちゃんと聞いているかどうか、おぼつかない場合でも、これは同じです。そして、この蒔かれた御言葉の種は、時が来れば芽を出します。夜の聖書とお祈りのひとときには、信仰やその日の出来事についても話し合うことができるように、時間を用意しておきましょう。また、今読んだ聖書の箇所について質問してみましょう。子供たちからしばしば驚くようなすばらしい答えが返ってきますよ。


何を教えるべきなのでしょうか?

子供は正直ですし、また相手からも正直であることを要求します。すでに教えたことをないがしろにしてはいけません。もしもそうするなら、「信仰についての話はすべてうそだったのか」と、子供は心の中で疑うようになります。「滅び」が存在することを教えた後で、「誰でも皆天国に行ける」と、子供に言ってはいけません。まさにこのことについて正直であるのは難しいものです。私が言いたいのは、イエス様とはまるで関係がないように生活していた隣人が死んだとき、「あの人は間違いなく滅びに落ちた」と子供に言わなければならない、ということではありません。「正直である」ということは、「あの人がどうなったかは、私たちにはわからない。あの人のことは神様の御手にゆだねよう。神様はあの人を、御自分がよいと思われるように裁かれるだろう。しかし、私たちはイエス様を信じている。だから、絶対に天国にいける」と子供に言うことです。

子供にも律法と福音を教えるべきです。神様の御命令がなんと言っているか、子供に語りなさい。罪を憎まれる聖なるお方、偉大なる神様について話しなさい。「イエス様は私たちのために死んでくださった。すべての罪は赦されている。イエス様の死のおかげで、私はそのままで神様に認め受け入れていただける」ということを語りなさい。私たちを愛し、憐れみ、天の家へと導いてくださる神様について、子供に話しなさい。


神様に話しなさい。

ある友人は私にこう言いました、「私の父は家にいることがほとんどなくて、この信仰を私に教えてくれる暇がありませんでした。でも、父が旅行中私のためにたくさん祈ってくれていたことを、私は知っています。私が今信じているのも、父の祈りの影響が大いにあると信じています」。もしもあなたがなんらかの理由で神様について子供たちに話せないときには、子供たちについて神様に話しなさい。それにも奇跡のような効果があります。