2008年11月14日金曜日

マルコによる福音書について 4章1~12節

神様の御国

マルコによる福音書4章1~34節

マルコによる福音書の4章には、神様の御国に関するイエス様のたとえ話が多く取り上げられています。イエス様のたとえ話は物語としてもすばらしいものばかりです。時代は移りゆきますが、たとえ話はいつの時代にも働きかける新鮮さを保っています。それらは、たとえばヨーロッパの国々の国民の言葉遣いに、消えることのないはっきりとした痕跡を残しつづけています。


謎めいた話 4章1~9節

「種蒔きの人のたとえ」は、イエス様の「かわった教え方」をよく示しています。イエス様はたとえを話され、それについて説明なさいませんでした。その意味を理解しなかった者はまもなくイエス様の御言葉を忘れてしまったにちがいありません。たとえの意味を理解した者は、生涯にわたって考えてゆくべき教えをいただいたのでした。
イエス様は種蒔きに出かけた男について語っています。イエス様がこの世で生きておられた時代には、人々は種蒔きを可能にする雨を長いこと熱心に待ちつづけることがよくありました。ようやく雨が降ると、種を蒔く人が仕事を始めます。はじめに土を耕すのではなく、まず種が蒔かれ、それからそれを土によって覆います。いくつかの種は道端に落ちました。これらの種は芽を出す暇もなく、鳥にあっという間に食べられてしまいました。いくつかの種は岩の上に落ち、すぐに芽を出しましたが、まもなく枯れてしまいました。いくつかの種は茨の茂みの中に落ちました。そこで種は芽を出し伸び始めましたが、覆いかぶさるようにして茂る茨がその成長を阻み、実をつけるには至らせませんでした。残りの種はよい土地に落ちて、種を蒔いた人の期待通りの収穫をもたらしました。うまくいった場合にはもとの10倍の実を得ることができました。100倍の重さの収穫を得るのは、ほぼ実現不可能な夢にすぎませんでした。もっとも、ひとつの籾には平均的に約35個の実が入っており、非常によい条件の下では100個の実が得られることもありました。


メッセージの意図的な隠蔽 4章10~12節

イエス様はたとえを聴衆全員には説明なさいませんでした。たとえの意味がわかった人もいれば、忘れてしまう人もいました。たとえを理解したのは、イエス様こそ神様がその到来をあらかじめ約束されていたキリストにほかならないことを理解した人たちのみでした。弟子たちはたとえの意味をイエス様にたずねました。イエス様は、「神様の御国を聴衆から隠すためにたとえで語るのです。」とはっきり言われました。これは神様の民の歴史の中で初めてのことではありません。主の御言葉のひとつの目的は、民の大部分をかたくなにし、御言葉が彼らの傍らを素通りすることだからです。神様は預言者イザヤを遣わして御自分のメッセージを民に伝えさせました。すでにイザヤが召命されるときにイザヤが見た幻の中で、神様のメッセージが民に受け入れられないことが告げられています(イザヤ書6章)。このイザヤの言葉をイエス様はここで引用し弟子に語られたのでした。この福音書の箇所では、今まで何度も触れられてきた「メシアの秘密」はおそらくもっとも明瞭で、しかもおそるべき様相を呈しているのではないでしょうか?