2008年2月29日金曜日

神様から来るリヴァイヴァル

「人が霊的に目覚める」というのはどういうことか、考えてみましょう。


神様から来るリヴァイヴァル

エルッキ・コスケンニエミ


「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねなさい。近くおられるうちに呼び求めなさい。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰りなさい。そうすれば、主はその人をあわれんでくださいます。私たちの神様に帰りなさい。主は豊かに赦しを与えてくださいます。私の思いはあなたがたの思いとは異なり、私の道はあなたがたの道とは異なっている、と主は言われています。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与えます。このように、私の口から出る言葉もむなしくは私のもとに帰りません。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを実現します。あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行きます。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打ちます。いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生えます。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはありません。」(イザヤ書55章6~13節)

このイザヤの言葉を聞いたのは、バビロン捕囚の下に置かれていた神様の民でした。この民は主の戒めをひどく破り、すべてを失ったのでした。エルサレムは荒れ果て、もはや自分たちの王はいませんでした。主の聖なる神殿は汚され、壊されていました。ところが、それから何十年も経った今になって、この民に神様の御言葉がおとずれ、新しい恵みの契約へと招待したのです。「民は喜びの中に自分たちの土地に帰ることができる」と、主は約束してくださいました。神様は御言葉をむなしく送られたわけではありませんでした。神様のくださった雨が、すべてが実を結び成長するように働きかけるのと同じように、御言葉もまた働きかけます。御言葉は、主がそれに与えた使命を正確に実現します。上に挙げたイザヤ書の御言葉もその通り実現し、神様の民は自分たちの土地へ帰ることができたのでした。

歴史は私たちに、神様の御言葉にはすごい力があることを教えてくれます。この力は今日でもちゃんと御言葉に保存されているのです。それゆえ、私たちはリヴァイヴァル(多くの人がある時に霊的に目覚めること)を祈り、「神様はそれを今でも私たちに与えることがおできになる」と強く信じています。


神様から来ていないリヴァイヴァルもあるのでしょうか?

確かに、神様から来ているとは言えない「リヴァイヴァル」もあります。私たちはすべての霊的なことがらを神様の御言葉によって評価しなければなりません。真のリヴァイヴァルは神様の御言葉の中に留まります。人々が自分の罪を告白して、自分の力ではなくイエス・キリストのゆえに、「自分が聖である」ことを信じて、神様の御言葉に従って活きて行くように人々を導く者は、神様の御心に適うことを行っているのです。本物のリヴァイヴァルの伝道者は、自分の心の不幸なほどののろさや冷たさを嘆いている人に対しても、何かよいメッセージがあるはずです。神様の恵みは、はるか彼方から降ってきて、ひどく冷え込んでしまった心の持ち主に新しい愛と力を与えるものでなければなりません。

一方では、私たちは、自分たちの用心深さのせいで、リヴァイヴァルの火を消してしまうことがないように注意しなければなりません。リヴァイヴァルでは、常識では考えられないようなことが起こるので、それに付随して、本来のリヴァイヴァルではないようなことが起きるのもさけがたいのです。たとえば、信仰の核心がちっともわかっていないままで、周りから注目を浴びようとする人たちも混ざってきます。霊的な力を経験した人が、他の人も皆自分と同じ経験をするように激しく要求する場合もあります。自分の教えの内容が、実は聖書とは違う何か他のものに基づいていることに、気が付かない人もいます。
このような状況の中で、私たちはどこか安全な場所に逃げ込んで、そこから決定的なパンチを繰り出す、というやり方もありうるでしょう。
もうひとつの方法は、パウロのように、今起きているリヴァイヴァルについて認めることができる点はちゃんと認めて、相手の使い慣れた言葉を用いて、相手の弱い点を忍耐しつつ、しかし同時に、神様の真理をはっきりと前面に打ち出す、というやり方です。
私たちも、リヴァイヴァル運動に参加してきた信仰の兄弟姉妹の中にリヴァイヴァルとは相容れない面や間違っていることがあった場合にどのようにして彼らと出会い付き合っていくべきか、あらかじめ心の準備をしておくべきでしょう。
神様の御言葉は、私たちがそれにしっかりつながっている限り、リヴァイヴァルを整え導きます。神様も私たちに対して忍耐され、私たちに真理を学ぶ時間を与えてくださっているのです。私たちも隣人に対して同じようにしない理由があるでしょうか?


リヴァイヴァルの核心とは何でしょうか?

ローマの信徒への手紙3章

どんなリヴァイヴァルでも神様から来ているというわけではありません。この世には、神様の真理から何光年も離れているような熱狂的な運動がたくさんあります。「宗教的」であることが、キリスト教にとって最悪の敵となるさえあります。どうすれば私たちは、真のリヴァイヴァルを見分けることができるのでしょうか。

神様の与えてくださった本物のリヴァイヴァルは、聖書にしっかりと基づいています。そこでは人は、自分の本当の状態に気が付きます。今の世の中では、神様をまったく必要としていないかのように思い込んでいる人たちが大勢います。彼らは、信仰のことがらを考えることがあったとしても、それはせいぜいロウソクを点して聖なる雰囲気を味わったり、美しく飾られたクリスマス礼拝に参加したりする程度のものでしょう。彼らにとって教会は雰囲気を提供する場にすぎません。罪と恵みについての話は彼らにとってちんぷんかんぷんです。「私は銀行強盗をしたこともないし、誰も殺したことがないのだから、何も怖がる必要はないだろう?」確かに人々の前では何も恐れる必要はないかもしれませんが、神様の御前ではそうではありません。
ローマの信徒への手紙3章は、人は各々神様の御前で罪深い存在である、と教えています。人にはいつも悪い考えや悪い言葉や悪い行いが伴っている、ということは、「人は、神様の栄光を受けられなくなっている」ということを意味しています(23節)。つまり、人は神様の栄光へと入っていくことができないのです。人の本来行くべき場所は、永遠の滅びです。

このことについて多くの人たちは、家に火がついて煙が立ち昇り始めているのにぐっすり眠り込んでいる人と同じくらい、無頓着なままです。そういうときには本当なら目を覚まして危険を察知するべきなのです。私たちを罪のまどろみの中から起こしてくれるのは、神様の御言葉です。これによって私たちは、自分たちが神様の怒りと裁きを受けるのが当然であることを、知ります。そしてこうしたことがわかるようになるのは、人が理性的に自分の頭で考えたからではなく、神様が与えてくださった大きなプレゼント、聖霊様の働きのおかげなのです。

私たちが絶望のうちに死ぬことがないように、神様は働きかけてくださいます。聖書にこう書いてあります。
「すべての人は罪を犯して、神様の栄光にあずかれなくなっています。彼らは、価なしに(ただで)、神様の恵みにより、キリスト・イエスにおけるあがないを通して、義とされているのです。」(ローマの信徒への手紙3章23~24節)
私たちの罪は神の小羊イエス様の血によって赦されています。これが私たちにとって唯一の「避難所」です。信じ始めたばかりの人にとっても、また、ヴェテランの信仰者にとっても。この守りの城砦は決して揺るがず、私たちを裏切ることもありません。

このように真のリヴァイヴァルとは、「罪と恵みを知ること」です。それは、はじめからおわりまで聖霊様のみわざです。「聖書は聖霊様の働きかけによって生れた」ことを、私たちは信じます。それゆえまた、「今もなお、聖書は聖霊様に反対して語ることは決してない」と私たちは信じます。真のリヴァイヴァルは、「偉大な神様と御言葉を前にして畏れる心をもって歩むこと」を人々に伝えていくものです。


リヴァイヴァルを体験する必要があるのでしょうか?

人はその人生の中で「リヴァイヴァル」(あるいは「新しく生まれる」とか、「信仰に入る」とか、いろいろな言葉がありますが)を体験することが絶対に必要である、と考えるクリスチャンがいます。「人は心の底から自分を主にお渡しし、霊によって満たされることが必要だ。もしもそうでなければ、誰も神様のものではありえない」というのです。

私たち人間は、自分で決めた要求を自分に課すのに慣れています。そして、「他の人も皆、自分と同じように体験するべきである」と要求しがちです。しかし、とりわけこうした問題については、人は神様の御言葉を超えて何か勝手なことをやってはいけません。もしも人がキリストを受け入れるのならば、すべてはそれで大丈夫なのです。自分の考えに頼って神様のみもとに行ける人はひとりもいません(たとえば、コリントの信徒への第1の手紙2章14節)。それはいつも聖霊様のみわざです。私たちは皆それぞれ異なっています。敏感な人もいれば、そうではない人もいます。敏捷な人がいれば、のろい人もいます。天の父なる神様は御自分の子供たちをよく御存知です。お父様は私たちをどのような道に沿って導いていかれるか、よく御存知です。自分の罪や心の冷たさを悲しんでいる人は、それが実は聖霊様が与えてくださった賜物であることを知りなさい。自分の希望をキリストに託す人は、救いの道を歩んでいます。私たちには、私たちのあがない主なるキリストがおられる、ということで十分なのです。イエス様は、私たちを聖なる洗礼において「御自分のもの」としてくださいました。イエス様は、私たちに御自分の恵みを主の聖餐で分け与えてくださいます。イエス様は、神様の御言葉の中で、あなたを愛しておられることを誓っておられます。

私たちは自分の人生の中で、ある特殊な体験や決まったパターンを必要とはしていません。私たちが必要なのは、イエス・キリストです。もしも私たちにイエス様がおられるならば、実は私たちにはすべてがあるのです。もしも私たちにイエス様がおられないならば、私たちには何もないのです。たとえ私たちがどれほど「宗教的」であったとしてもです。


リヴァイヴァルを経験した人は、いつも目を覚ましているのでしょうか? 

一度リヴァイヴァルを体験した人が、おわりまで「目を覚まし続けている」とは限りません。キリストは御自分の民が目を覚まし続けているようにと、忠告なさっています。私たちが出会う危険は大きいのです。神様の子供は、神様からいただいたものを、いともたやすく失ってしまいます。 滅びの道を歩んでいる者にとって、一度若いときに経験したリヴァイヴァルは、たいした役に立ちません。自分の力に頼る限り、私たちは、ゲッセマネにいた弟子たちと同じようなありさまです(マタイによる福音書26章)。キリストは弟子たちを何度も起こさなければなりませんでした。にもかかわらず、弟子たちはいつも深い眠りにとらわれました。それゆえ、私たちは、リヴァイヴァルを神様に絶えずお願いして、こう祈ります。「主よ、あなたの教会を眠りから起こしてください。そして、それを私からはじめてください!」