2024年5月16日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その4)

「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その4)


「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節に書いてあることはすべて、

エフェソのグノーシス主義者たちに対するパウロの「原始的な反応」にすぎず、

現代のキリスト信仰者たちには何の重みも持たないと考えるべきなのでしょうか。


ここで第一に想起すべきことは、

新約聖書と旧約聖書に含まれるすべての文書は

それぞれ特定の歴史的な状況の中で生まれたということです。

文書に歴史的な背景があるからといって、

その文書の教えそのものを捨ててもかまわないということにはなりません。

 

第二に、パウロのすべての手紙が私たちの生きる現代まで

保存されてきたわけではないということを思い起こす必要があります。

例えばコリントの教会に宛てた複数の手紙のうちの二通は

今でも見つかっていないことがわかっています

(「コリントの信徒への第一の手紙」5章9節、

「コリントの信徒への第二の手紙」2章4節)。

またラオデキヤの教会に送られた手紙も残っていません

(「コロサイの信徒への手紙」4章16節)。


パウロの多くの手紙のうちの一部分だけが

私たちの時代にまで保存されてきたのは

聖霊様の働きかけによるものです。

まさにこれら保存されてきた一群の手紙を通して

神様は私たちに語りかけることを望んでおられるということなのです。

 

「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。

聖徒たちのすべての教会で行われているように、

婦人たちは教会では黙っていなければならない。

彼らは語ることが許されていない。

だから、律法も命じているように、服従すべきである。

もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。

教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。

それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。

あるいは、あなたがただけにきたのか。

もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、

わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。

もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。

わたしの兄弟たちよ。

このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。

また、異言を語ることを妨げてはならない。

しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜40節、口語訳)

 

神様から授けられた権能に基づいてパウロは

上掲の箇所で女性が教会の集まり(礼拝)で教えることを禁じています。

パウロのこの見解は意味が曖昧なものではなく、

エフェソ教会特有の状況や問題に限定されるものではないと言うことができます。

しかしこれが今日のキリスト信仰者たちにとっても規範となるものであることを

認めようとしない人々が現代には大勢います。

 

例えば女性牧師制をめぐる諸問題は

聖書とその教えの規範性に関わる問題にほかならないことに注目してください。

もしも聖書の教えをある箇所について捨ててもよいと考えるのならば、

他の箇所についても聖書の教えを捨てることが平然とできるようになります。

2024年5月13日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その3)

教会における男性と女性「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節(その3)


すでにべてきたようなグノーシス主義の世界観にはくの異説があるが、

互いに共通している部分もある。


天界のエピノイア = ピスティス = ソフィア

あるいはらかのばれる存在が、

この悪の世界に新しい人間たちが

これ以上生まれてこなくてもよいようにするために、

りの創造神結婚どもの出産から解放されるように

人間たちを教育することを主な目的として活動しているというである。


このような啓蒙を受けた女たちは「母 = 父」の種子である。

彼らは男に対しても女に対しても権威ある者として登場し、

彼らに真理を教えることができる。


このような世界観に基づいて形成される思想的な背景に照らし合わせると、

パウロの意図することが浮き彫りになってくる。


グノーシス主義者たちは

創造の秩序を破壊して男性を支配下におく権能をイエスが女性に授けた

と主張した。

それに対してパウロはキリストの使徒として

この主張を容認できないと返答しているのである。


「男の上に立ったりすること」という時、

パウロはごくまれな単語(ギリシア語で「テンテオー」)を用いているが、

実はこれはグノーシス主義者たちが使用していた専門用語である。

この単語は無条件の権威を手中に収めることと、

反論を一切許さない権威によって法を制定することを意味している。

キリスト信仰者たちはそのような権威が実際に存在することを知っている。

しかしそのような権威は神様しか有しておられないものである。


神様からいただいた使命に基づいて御言葉を教会に宣べ伝える時、

福音宣教者はこの権威を付与されている。

最初期の教会では使徒たち、預言者たち、正しい御言葉の僕たちは

この権威に基づいて宣教できることが認知されていた。


しかしグノーシス主義者たちは

女たちも同じことができると主張しているのである。

それに対してパウロはそれが神様の御意思ではないことを示す。


女は教師として皆の前に現れて

「男の上に立ったりすること」をするべきではない。

これは妻が夫の上に立ってはいけないという意味ではなく、

礼拝における秩序にかかわる問題である。


前掲の「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節の内容は、

神様のお遣わしになった教師また指導者として

礼拝で皆の前に立つことを示唆していると理解されるべきである。

「静かにしている」(ギリシア語では「エン・ヘーシュキアー」)とは

「静かに聴く」ということであり、

ここでは礼拝で教えを聴くことを意味している。

「ヘーシュキアー」は沈黙、静けさ、聴くことを意味する。」


Bo Giertzの本からの引用はここまでです。訳者注)

2024年5月8日水曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その2)

 「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。

女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。

むしろ、静かにしているべきである。

なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。

またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。

しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、

子を産むことによって救われるであろう。」

(「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節、口語訳)

 

ある聖書研究者たちは

牧会書簡を書いたのがパウロではないことを示す十分な根拠として

上掲の箇所を挙げています。

パウロが女性に対してこれほどまで否定的な態度をとることは

ありえないはずであると彼らは考えるのです。

 

その一方で、別の聖書研究者たちは

上掲の箇所を引き合いに出してパウロを女性蔑視者と決めつけて断罪し、

それを口実にしてキリスト教の信仰と教えそのものを捨ててしまいました。

 

上掲の箇所は新約聖書の中でも

適切に理解するのが最も困難な箇所のうちのひとつです。

例えばパウロは女性が「子を産むことによって救われる」と

本当に考えていたのでしょうか。

 

1945年にエジプトで発見されたグノーシス主義の文書

(ナグ・ハマディ文書)は当時の思想史的な文脈に基づいて

この箇所を理解するのに役立つ貴重な情報を提供してくれます。

 

スウェーデンの神学者Bo Giertzは牧会書簡の解説書で

この文書について次のように説明しています。

 

「これらの文書に基づいて以前よりもはるかに詳細なことが

グノーシス主義についてわかってきた。

グノーシス主義は他の諸宗教からの様々な要素を

ためらうことなく積極的にキリスト教に導入した

当時の「世界教会主義」であった。

グノーシス主義はユダヤ教からは

聖書の人名や人間の創造と堕罪の物語を取り入れつつも、

旧約聖書の神信仰の内容については

ユダヤ教とはまったく異質なものへと改変を施した。

グノーシス主義によれば、

真の神は名を持たない知られざる存在であり、

人間には及びもつかない遠方に潜んでいる。

この真の神から、より低次元の神的な存在が発出している。

この存在は両性的な「母 父」あるいは女神として理解されている。

この女神にはピスティス、ソフィア、エピノイア、バルベロといった

多くの名が付与されている。

万象の始原とされる「母」にまつわる創造神話には多くの異説がある。

たいていの場合、

この母は新しい神である創造神デミウルゴス

(「ヤルダバオート」などと呼ばれる)を誤って産んでしまった存在と

位置づけられている

(グノーシス主義者たちは天界の諸力に仰々しい名を付けることを好んだ)。

いま最後に挙げた旧約聖書の神、デミウルゴスは

不完全で、しばしば悪の力として働く存在ととらえられている。

悪の天使たちの助けによってこの神は人間の肉体を造ったが、

それに命を与えることには失敗した。

そこで女神が自らの光の力を人間の肉体に吹き込むことによって

ようやく人間に命が生じた。

こうして最初の人間が生まれるが、

それは「アンドロギューニ」すなわち

同時に男でもあり女でもある両性的な存在である。

ヤルダバオートとその悪の手下たちは

女神の光の力を手に入れようとしてアダムの一部を切り取って女を造った。

エバは天界の光の力から、より大きなかけらを手に入れるが、

デミウルゴスは彼女を誘惑することに成功する。

デミウルゴスは性的な欲望を惹き起こしエバと婚姻関係を結ぶことになる。

その後、死が入り込み、人間たちは死の隷属下におかれる。

女神が人間たちの目を開いた結果、

彼らは男と女に分たれ、いかなる不幸が起きたのかに気づく。

実はここに救いがある。

聖書が罪への堕落と呼んでいるその瞬間にすでに解放は始まっている。

解放する女神は知識の木の中に隠れ、蛇の口を借りて語りかけ、

禁じられた実をエバに食べさせた。

その結果、エバは理解力を得たのである。

同じ神の力は人間たちの目を開くために働きかける。

その結果、

彼らは男と女の間の違いにはどのような不幸が内包されているかを見て、

それを否定するようになる。

それとともに彼らは結婚も性交も出産も否定するようになる。

この時、彼らは男も女も存在しない原初の状態への旅をしているのだ。

グノーシス主義者たちはマグダラのマリアを特に高く評価した。

イエスは彼女を使徒の誰よりも愛した。

彼女はイエスといつも一緒にいることを許されていた。

使徒たちはそのことで機嫌を損ねたが、

イエスは「私は彼女を男にするために彼女を導かなければならないのだ。

自分自身を男へと変える女は皆、天の御国に入れるからである」と言った。

ナグハマディ文書の中に含まれる「マリアの福音書」では

マグダラのマリアが使徒たちに主から得た啓示を教えている。

アンデレはキリストが本当にそれらすべてのことを言ったのかどうか疑う。

救い主は使徒たちにそれについて語らなかったため、

ペテロは救い主が本当に彼女にそのようなことを個人的に話したのかどうか

マリアを詰問し始める。

しかしレビはペテロをたしなめてこう言う。

「もしも救い主がマリアをそのように評価したのだとしたら、

彼女を否定しようとするお前は何様のつもりだ」。

こうしてマリアが正しいことが示される。」(つづく)