2026年10月12日月曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック 「テトスへの手紙」1章10〜16節  きよい人には、すべてのものがきよい(その1)

 きよい人には、すべてのものがきよい(その1)

「テトスへの手紙」1章10〜16節

 

「実は、法に服さない者、空論に走る者、

人の心を惑わす者が多くおり、

とくに、割礼のある者の中に多い。」

(「テトスへの手紙」1章10節、口語訳)

 

クレテに蔓延した異端の教えはもともとユダヤ人たちが広めたものであった

と上節から推論することもできますが、

たしかにそうであったとも言い切れません。

グノーシス主義は種々多様な宗教からの影響を受容してできた

「諸宗教のごった煮」のようなものであったからです。

クレテのグノーシス主義者たちが

ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々の心を掴むような布教活動を展開した

ということはありえます。

ともあれ異端の教えはもともとキリスト教会の外部ではなく

内部に生起したものでした。

 

「彼らの口を封ずべきである。

彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、

数々の家庭を破壊してしまっている。」

(「テトスへの手紙」1章11節、口語訳)

 

異端の教師たちは熱心に家々を個別訪問して布教活動を行いました。

こうして彼らは家族単位での改宗を進めていったのです。

彼らはまた布教活動を通じて経済的な利益を得ようとしました。

おそらく彼らは改宗者たちから報酬を要求したのでしょう

(「テモテへの第一の手紙」6章5〜10節も参考になります)。

 

パウロは異端の教師たちを「空論に走る者」と呼んでいます

(1章10節、「テモテへの第一の手紙」1章6節)。

 

異端教師たちの「口を封ずべきである」とパウロは命じています。

彼らと対話したり論争したりするのは徒労に終わります。

彼らは自分の道をすでに選んでしまっているからです

(3章10節も参照してください)。

 

「クレテ人のうちのある預言者が

「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」

と言っているが、この非難はあたっている。」

(「テトスへの手紙」1章12節および13節冒頭、口語訳)

 

上掲の箇所に引用されているのは

紀元前500年代に生きたエピメニデスの詩です。

この詩人は預言者とも目されていました。

おそらくパウロは「預言者」という言葉によって、

クレテ人についてのエピメニデスの詩がパウロの時代のクレテ人にも当てはまる

という意味で予言的でもあったことを強調したいのではないでしょうか。

ギリシア語では

「クレテ人である」という言葉と「嘘をつく」という言葉は同義語です。

大陸側のギリシア人たちはクレテ人たちを

かくも信頼ならない者とみなしていたということです。

2026年10月2日金曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック 「テトスへの手紙」1章5〜9節 キリスト教会の指導者(牧師)の持つべき特徴(その2) 

キリスト教会の指導者(牧師)の持つべき特徴(その2)

「テトスへの手紙」1章5〜9節 


「テトスの手紙」の挙げる教会の指導者に求められる諸項目は
「テモテへの第一の手紙」3章1〜12節にある
一連の要求項目と似通っています。
相違点として
「テトスへの手紙」では自制心と慎み深さの重要性が
「テモテへの第一の手紙」よりも強調されています
(2章2、6、12節、「テモテへの第一の手紙」3章8節)。

 

「長老は、責められる点がなく、

ひとりの妻の夫であって、

その子たちも不品行のうわさをたてられず、

親不孝をしない信者でなくてはならない。」

(「テトスへの手紙」1章6節、口語訳)

 

「ひとりの妻の夫」という表現は結婚における忠実さを強調しています。

これは教会の指導者が必ず既婚者でなければならないとか、

やもめとなった場合には再婚しなければならない

という意味ではありません

(「テモテへの第一の手紙」3章2節も参考になります)。

 

「監督たる者は、神に仕える者として、

責められる点がなく、わがままでなく、

軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、

かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、

自制する者であり、教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。

それは、彼が健全な教によって人をさとし、

また、反対者の誤りを指摘することができるためである。」

(「テトスへの手紙」1章7〜9節、口語訳)

 

教会の指導者である「監督」の仕事とは

奇抜な教義や聖書解釈を捏造することではなく、

使徒たちから受け継いできた「教え」を忠実に伝えていくことです。

パウロは牧会書簡において

「健全な教」、

「わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教」、

「わたしから聞いた健全な言葉」

の重要性について繰り返し述べています

(「テモテへの第一の手紙」1章10節および6章3節、

「テモテへの第二の手紙」1章13節および4章3節で

合計8回の言及があります)。

これはパウロの他の手紙にはみられない特徴です。

しかしこれは、

パウロが他の手紙ではキリスト教信仰を「教え」として明示しなかった

という意味ではなく、

別の言いかたも用いることがあったということです。

例えば「ローマの信徒への手紙」の6章17節および16章17節でも

パウロは「教え」について述べています

(「伝えられた教」、「あなたがたが学んだ教」)。

最初期からキリスト教信仰は

ある種の「教えのかたち」を絶えず保ち続けてきたのです。

 

上掲の箇所で教会の指導者たちには

「二つの声」が要求されていることに注目しましょう。

彼らには福音の宣教者として

キリスト信仰者たちを励ます使命が与えられているのです。

その一方で、彼らには異端の教えの誤謬を看破する責務もあります。

 

2026年9月28日月曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック 「テトスへの手紙」1章5〜9節 キリスト教会の指導者(牧師)の持つべき特徴(その1)

 キリスト教会の指導者(牧師)の持つべき特徴(その1)

「テトスへの手紙」1章5〜9節

 

「あなたをクレテにおいてきたのは、

わたしがあなたに命じておいたように、

そこにし残してあることを整理してもらい、

また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。」

(「テトスへの手紙」1章5節、口語訳)

 

パウロはテトスをクレテ(クレタ島)に残しました。

「使徒言行録」には

パウロがクレテで福音を宣べ伝えたという記述はありません。

記されているのは、

カイザリヤからローマに囚人として護送される途中で彼がクレテを訪れた

ということだけです(「使徒言行録」27章7〜12節)。

パウロはローマでの最初の投獄生活から解放された後にクレテを訪れた

とも考えられます。

 

テトスのやるべき仕事は

クレテの諸教会の事柄を整理し

町々の教会に「長老」を立てていくことでした

(「テモテへの第一の手紙」4章14節、

「テモテへの第二の手紙」1章6節も参考になります)。

 

ギリシア語で「長老」(1章5節)は「プレスビュテロス」、

「監督」(1章7節)は「エピスコポス」といい、

西暦一世紀にはどちらの単語も教会の指導者を意味していました。


「長老」が各個教会を指導し

「監督」(英語の「ビショップ」に相当します)が同じ町の中にある各個教会を

一括して指導するという責任分担体制が一般化したのは

西暦二世紀に入ってからです。


「使徒言行録」20章17節および28節は

エフェソにある諸教会の指導者たちを

「長老」とも「監督者」とも呼んでいます

(「ペテロの第一の手紙」5章1〜2節の

「長老」についての記述も参考になります)。

 

パウロは各個教会の指導を信頼できる男たちに委ねては

新しい町々へと旅を続けていきました

(「コリントの信徒への第一の手紙」1章7節

および3章5〜11節および16章10〜12節、

「フィリピの信徒への手紙」2章19節)。

 

クレテからきたユダヤ人たちは

最初の聖霊降臨日(「五旬節の日」)の時には

すでにペテロの説教を聞いていました

(「使徒言行録」2章1、11節)。


しかしクレテにキリスト教会ができたのは

おそらく60年代であったと思われます

(上掲の「テトスへの手紙」1章5節を参照してください)。


クレテの教会の指導者たちが満たすべき諸項目の中には

「信者になって間もないものであってはならない」

(「テモテへの第一の手紙」3章6節)

という項目は含まれていません。


歴史が浅かったクレテの教会には

経験豊富なキリスト信仰者がそもそも存在しなかったのでしょう。

2026年9月4日金曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック 「テトスへの手紙」1章1〜4節 はじめのあいさつ(その2)

はじめのあいさつ(その2)

「テトスへの手紙」1章1〜4節


神様は偽りを言われません(1章2節)。
神様の啓示は真理です。
偽りを言うのは人間たち(1章12節)や
悪魔(「ヨハネによる福音書」8章44節)のほうです。

 

この世の始まる前(「永遠の昔」)に

神様は人類を罪の圧制下から救い出すことをお決めになりました

(1章2節、他に

「エフェソの信徒への手紙」3章8〜11節、

「コロサイの信徒への手紙」1章25〜26節、

「テモテへの第二の手紙」1章9節も参照してください)。

 

「神は、定められた時に及んで、

御言を宣教によって明らかにされたが、

わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、

この宣教をゆだねられたのである。」

(「テトスへの手紙」1章3節、口語訳)

 

神様は「定められた時に及んで」この救いの計画を実現なさいました

(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節)。

神様はこの救いを宣べ伝えていく使命を

パウロや他の使徒たちに委ねられたのです

(「テモテへの第一の手紙」2章6節)。

 

パウロは「救い主」(ギリシア語で「ソーテール」)という単語を

新約聖書で12回用いており、

そのうちの半数(6回)は「テトスへの手紙」に登場します。

この手紙でパウロは「神」という単語を

3回(1章3節、2章10節、3章4節)、

「イエス」という単語を3回

(1章4節、2章13節、3章6節)用いています。

 

「信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。

父なる神とわたしたちの救主キリスト・イエスから、

恵みと平安とが、あなたにあるように。」

(「テトスへの手紙」1章4節、口語訳)

 

前述のようにテトスはパウロの伝道を通してキリスト信仰者となりました。

テトスはパウロの最も近しい同僚の一人でしたが、

新約聖書は彼についてあまり記述していません。

2026年8月31日月曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック 「テトスへの手紙」1章1〜4節 はじめのあいさつ(その1)

 異端との戦い

「テトスへの手紙」1章

 

はじめのあいさつ(その1)

「テトスへの手紙」1章1〜4節

 

「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――

わたしが使徒とされたのは、

神に選ばれた者たちの信仰を強め、

また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、

偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基づくのである。」

(「テトスへの手紙」1章1〜2節、口語訳)

 

新約聖書のこの箇所でのみパウロは自分のことを

「神の僕」と呼称しています。


「ローマの信徒への手紙」1章1節と

「フィリピの信徒への手紙」1章1節ではパウロは自分を

「イエス・キリストの僕」や「キリスト・イエスの僕」と呼んでいます。


また「ヤコブの手紙」1章1節でヤコブは自分のことを

「神と主イエス・キリストとの僕」と呼んでいます。

 

「神の僕」としてパウロに与えられた使命は福音を宣べ伝えることでした。

それゆえ彼は自分のことを「使徒」とも呼んでいました。

「使徒」はギリシア語で「アポストロス」といい

「使わされた者(遣わされた者)(男性)」という意味があります

(この単語の動詞形「アポステッロー」は

「使わす(遣わす)」という意味です)。

パウロは神様からの「よい知らせ」(福音)を宣べ伝えるために使わされたのです。

 

ギリシア語原文でのパウロの文章は一文がとても長いものが多くあります。

例えば「ローマの信徒への手紙」1章の1節のはじめから7節の終わりまでは

ギリシア語では一文を構成しています。

「テトスへの手紙」1章でも1〜4節は一つの文です。

このままでは読みにくいし意味も汲み取りにくくなるために

翻訳ではいくつかの文に分けて訳されることがしばしばみられます。

このガイドブックで使用している口語訳でもそのようになっています。

 

「信仰」(ギリシア語で「ピスティス」)と

「真理の知識」(ギリシア語で「エピグノーシス・アレーテイアース」)

(1章1節)とは互いに一つに結びついています。


私たちキリスト信仰者の信仰は真理に基づいて構成されています。


例えばイエス様の復活の歴史的な真実性は

キリスト教信仰にとってあまり重要ではないと考える人々もいますが、

次の引用箇所にあるように

パウロ(および他の最初のキリスト信仰者たち)は

それとは異なる考えかたをしていました。

 

「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、

あなたがたの信仰は空虚なものとなり、

あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。

そうだとすると、

キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。

もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって

単なる望みをいだいているだけだとすれば、

わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。

しかし事実、

キリストは眠っている者の初穂として、

死人の中からよみがえったのである。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章17〜20節、口語訳)。

2026年8月21日金曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック 「テトスへの手紙」について

「テトスへの手紙」について 


「テトスへの手紙」は「テモテへの第一の手紙」とよく似ています。

パウロはアポロとゼナスがクレテに行こうとしていることを知って、

テトスに教会の牧会に関する指示を送りました(3章13節)。

パウロは「テモテへの第一の手紙」と「テトスへの手紙」を

おそらく同じ時期にコリントあるいはエフェソで書いています。

「テモテへの第二の手紙」はそれらよりも後で書かれた

「使徒の遺言」とでも呼べる手紙です。

 

ニコポリで越冬する予定を立てていたパウロは

テトスが自分のところを訪れるようにするために

アルテマスかテキコをテトスの代理として

クレテに派遣するつもりでいました(3章12節)。

「テモテへの第二の手紙」でパウロは

テトスがダルマテヤに出発したと述べています

(「テモテへの第二の手紙」4章10節)。

これがテトスに関する聖書の最後の記述です。

 

クレテ(クレタ島のこと)は不道徳さで悪名高い土地でした

(1章10〜16節)。

しかしパウロはテトスなら困難な状況も打開できるであろう

と信頼していたようです。

 

2章11〜14節にはキリスト教の信仰がまとめられています。

 

次の節を含む3章4〜7節では

洗礼と聖霊様との緊密な関係が明快に述べられています。

洗礼において神様は私たちを救われたのです。

 

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、

ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、

聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」

(「テトスへの手紙」3章5節、口語訳)

2026年8月12日水曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック テトスについて(その2)

 テトスについて(その2)

パウロはテトスをエフェソからコリントに派遣しました。

その目的はコリント教会に生じた問題を解決することでした。

その際おそらくテトスはいわゆる「涙の手紙」

(「コリントの信徒への第二の手紙」2章3〜4、9節

および7章8節で言及されている現存していない手紙)

を携えていたものと思われます。

テトスはコリント教会の混乱を収めることができましたが、

コリントからの便りがなかったため心配したパウロはマケドニヤに赴いて

(「コリントの信徒への第二の手紙」2章13節)テトスと再会し、

コリントの教会についての朗報をそこでようやく耳にしました。


マケドニヤでパウロは「コリントの信徒への第二の手紙」を書き上げ、

テトスをふたたびコリントに派遣します。

その目的はエルサレム在住の貧しい信徒たちのために

献金を集める計画を遂行させることでした

(「コリントの信徒への第二の手紙」8章15節)。


パウロはテトスを

「わたしの仲間であり、あなたがたに対するわたしの協力者」

と呼んでいます(「コリントの信徒への第二の手紙」8章23節)。

 

「テモテへの第二の手紙」4章10節によれば、

テトスはダルマテヤに滞在したことがあります。

 

なお、教父エウセビオスは著書「教会史」で

テトスがクレテの初代の教会長となり、その地で高齢にて没したと述べています。

2026年8月10日月曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック テトスについて(その1)

 「テトスへの手紙」ガイドブック

 

フィンランド語版執筆者 パシ・フヤネン

(フィンランド・ルーテル福音協会、牧師)

 

日本語版翻訳・編集者 高木賢

(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

聖書の引用は原則として口語訳によっています。

引用箇所に章と節のみが記されている場合は

「テトスへの手紙」からの引用です。

ただし「「コリントの信徒への第一の手紙」1章13節および3章2節」

といった表記の場合には

どちらも「コリントの信徒への第一の手紙」からの引用です。

また日本語版では

聖書の箇所を明示したり原語の文法的な補足説明を加えたりするなど

日本の読者を考慮した編集がある程度なされています。

 

 

 

「テトスへの手紙」について

 

「テトスへの手紙」1章 異端との戦い

「テトスへの手紙」2章 教えと信仰生活

「テトスへの手紙」3章 この世で生きるキリスト信仰者として

 

 

テトスについて(その1)

 

テトスは新約聖書で13回その名が出てきます

(「テトスへの手紙」1章4節、

「コリントの信徒への第二の手紙」2章13節

および7章6、13、14節

および8章6、16、23節

および12章18節(2回)、

「ガラテアの信徒への手紙」2章1、3節、

「テモテへの第二の手紙」4章10節)。

しかし驚くべきことに「使徒言行録」には彼の名は一度も出てきません。

これはテトスがルカの親戚だった(もしかしたら兄弟でさえあった)

からではないかという推測もなされていますが、

たんなる仮説にすぎず確実なことは何も言えません。

            

テトスはギリシア人キリスト信仰者

すなわち異邦人の背景を持つキリスト信仰者でした。

ユダヤ人キリスト信仰者たちから要求されたにもかかわらず、

パウロはテトスに割礼を受けさせることを断固として拒絶しました

(「ガラテアの信徒への手紙」2章1〜4節)。

それとは対照的に、

パウロはテモテが割礼を受けることは承認しています

(「使徒言行録」16章3節)。


ユダヤ人の母親を持つテモテはユダヤ人とみなされたため、

パウロは

割礼を受けていないユダヤ人を自分の伝道グループに同行させることから

生ずるかもしれないユダヤ人たちとの間の軋轢を

できるかぎり避けたかったのです。


しかし、テモテとは異なりテトスは異邦人でした。


パウロがエルサレムに赴いて使徒会議に参加したのは

「異邦人も割礼を受けるべきかどうか」について

そこで議論されることになっていたからです

(「ガラテアの信徒への手紙」2章1節、

「使徒言行録」15章1〜2節)。


このことを踏まえると、

テトスはいわば「テスト・ケース」であったことがわかります。


もしもテトスが割礼を受けなければならないとしたら、

他の異邦人キリスト信仰者も皆

テトスと同じように割礼を受けなければならないことになります。

しかし、もしもテトスが割礼を受ける必要がないのなら、

他の異邦人キリスト信仰者も皆

割礼を受ける必要がないことになります。


パウロはすでに40年代にはテトスと知り合っていました。

テトスはシリヤのアンテオケのキリスト信仰者であり、

おそらくパウロの伝道を通してキリスト信仰者になったものと思われます

(1章4節)。

2026年6月5日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」4章19〜22節 終わりの挨拶

終わりの挨拶

「テモテへの第二の手紙」4章19〜22節

 

「プリスカとアクラとに、またオネシポロの家に、よろしく伝えてほしい。」

(「テモテへの第二の手紙」4章19節、口語訳)

 

プリスカとアクラはユダヤ人キリスト信仰者の夫婦でした。

クラウデオ帝が首都ローマからユダヤ人を追放するよう命じたために

彼らはローマを退去せざるを得なくなりました(「使徒言行録」18章2節)。

コリントでパウロに出会い同僚となった彼らはパウロと共にエフェソに出発し

そこに留まりました。

しかしパウロはさらにエルサレムへと旅を続けました

(「使徒言行録」18章18〜28節)。

 

パウロは「ローマの信徒への手紙」(16章3節)で

プリスカとアクラに挨拶を送っています。

その時点で彼らはローマに帰還していたのです。

しかし「テモテへの第二の手紙」の書かれた時には

ふたたびエフェソに来ていました。

パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」を

エフェソから書き送ったのはほぼ確実であり、

その末尾には

「アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」16章19節)とあります。

 

オネシポロは「テモテへの第二の手紙」のはじめのほうにも

その名が挙げられています(「テモテへの第二の手紙」1章16〜18節)。

 

「エラストはコリントにとどまっており、

トロピモは病気なので、ミレトに残してきた。」

(「テモテへの第二の手紙」4章20節、口語訳)

 

エラストはコリント市の会計係であり(「ローマの信徒への手紙」16章23節)

パウロとテモテの同僚でもありました(「使徒言行録」19章22節)。

 

トロピモは小アジヤ出身であり(「使徒言行録」20章4節)、

パウロの第三次伝道旅行に同行し、エルサレムまで一緒に来ています

(「使徒言行録」21章29節)。

ですからトロピモがミレトに残ったのはこの第三次伝道旅行の時ではなく

もっと後になってからのことになります。

 

エフェソの港町であったミレトは

エフェソの南方およそ80キロメートルのところにありました。

 

「冬になる前に、急いできてほしい。

ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤならびにすべての兄弟たちから、

あなたによろしく。」

(「テモテへの第二の手紙」4章21節、口語訳)

 

当時、冬季には帆船による航海は行われませんでした

(「使徒言行録」27章12節および28章11節)。

 

プデスとクラウデヤはラテン名です。

このことは「テモテへの第二の手紙」がローマで書かれたことを裏付けます。

原語で言えば「ウス」(”us”)という語尾をもつ名前はラテン名であり、

「オス」(”os”)という語尾をもつ名前はギリシア名です。

ギリシア語で「ユブロ」は「エウブーロス」(Euboulos)といい、

「リノス」(Linos)とともに

「オス」という語尾をもつ名前(ギリシア名)になっています。

 

エイレナイオスとエウセビオスという二人の教父は

ペテロとパウロの殉教後ローマの教会長

(ローマ・カトリック教会の呼称によれば「法皇」)になった最初の人物が

リノスであったと伝えています。

ただし、この名は当時珍しいものではなかったので、

このリノスが21節のリノスと同一人物であるかどうかについては

何も言えません。

 

上掲の節はパウロがまったくの孤独ではなかったことを示しています。

パウロにはまだ数人の信仰の兄弟姉妹がローマに残っていたのです

(4章16節も参考になります)。

 

「主が、あなたの霊と共にいますように。

恵みが、あなたがたと共にあるように。」

(「テモテへの第二の手紙」4章22節、口語訳)

 

手紙の末尾の挨拶は複数形で「あなたがた」宛になっています。

この手紙は私的なものではなく

一般に読まれることを想定して書かれていたのです。

しかしこの手紙がテモテ宛に書かれたものでもあることは

上節のはじめに単数形を用いて

「主が、あなたの霊と共にいますように。」

と書かれていることからわかります。

 

(以上で「テモテへの第二の手紙」はおわりです。)

2026年5月18日月曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」4章14〜18節 ひとり取り残された使徒

 ひとり取り残された使徒

「テモテへの第二の手紙」4章14〜18節

 

「わたしの第一回の弁明の際には、

わたしに味方をする者はひとりもなく、

みなわたしを捨てて行った。

どうか、彼らが、そのために責められることがないように。」

(「テモテへの第二の手紙」4章16節、口語訳)

 

この節はローマでパウロの受けた最初の裁判と投獄

(「使徒言行録」28章16、30〜31節)について述べている、

という解釈があります。

それによると次の4章17節は

パウロのエスパニヤ旅行での様子を描写していることになります。

しかしこれが最も自然な解釈であるとは必ずしも言えません。

 

パウロの案件はローマ当局の取り調べを受けました。

しかしローマ在住のキリスト信仰者たちはパウロを弁護しようとしませんでした。


使徒教父文書の一つである

「コリントの信徒への第一のクレメンスの手紙」(5章5節)からは、

パウロが死刑判決を受けることになったのは

ローマのキリスト信仰者たちがパウロを積極的に弁護しなかったことも

影響したらしいことが読み取れます

(「(律法をめぐる)激しい諍いのために

パウロは忍耐によって勝利の冠を得た」)。


この問題については

「フィリピの信徒への手紙」1章15〜18節も参考になります。

 

しかしパウロはそのようなローマのキリスト信仰者たちのことを赦しました。

パウロのこの姿勢には

イエス様の十字架の上での御言葉

(「父よ、彼らをおゆるしください。

彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」)

に通じるものがあるのではないでしょうか

(「ルカによる福音書」23章34節)。

 

「しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、

すべての異邦人に聞かせるように、

主はわたしを助け、力づけて下さった。

そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。」

(「テモテへの第二の手紙」4章17節、口語訳)

 

今回の裁判でもパウロは自らの信仰について証しました

(「使徒言行録」24章10〜21節および26章1〜32節。

また「使徒言行録」23章11節および27章23〜24節も参考になります)。

 

パウロはローマ帝国の正規な国民であったため

(「使徒言行録」22章25〜29節)、

獅子の餌食として闘技場に投げ出されることはありませんでした。

「わたしは、ししの口から救い出されたのである」は比喩であり、

パウロがきわめて困難な状況から救い出されたことを表しています。


なお「ペテロの第一の手紙」5章8節で

サタンは「ほえたけるしし」と呼称されています。

 

「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、

天にある御国に救い入れて下さるであろう。

栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン。」

(「テモテへの第二の手紙」4章18節、口語訳)

 

この節は「悪しき者からお救いください。」

(「マタイによる福音書」6章13節)という主の祈りの一節を想起させます。