2019年11月22日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

「詩篇」38篇


神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その1)

人は様々な苦しみを受けるものですが、
多くの人が最も苦しめられるのは「孤独」ではないでしょうか。
この孤独の問題について詩人はここで語り始めます。

敵が詩人に襲いかかってきました。
詩人自身の罪がそれを誘引した面もあるでしょう 。
敵からの集中攻撃を受けている詩人を目の当たりにして、
詩人の友人たちは彼から離れ始めました。
敵どもは詩人を包囲していますが、
これは神様の許可があったからできたことです。
眼前の敵に対して詩人にはなすすべがありません。
彼にできることは神様に助けを叫び求めて祈ることです。
そのようにして彼は唯一の安全な「避難所」に身を隠します。

この詩人が結局どうなったのか「詩篇」は語っていません。
神様が自分を救ってくれることを詩人が確信していたかどうかも、
この「詩篇」からは伝わってきません。
しかし
「神様はあらゆるものを超越した大いなるお方である」
という事実だけははっきりと伝わってきます。

困難な状況が現出するのを許されたのが神様御自身なのだとすれば、
やはり神様だけが詩人を苦境から救い出す力を有しておられることにもなります。
だからこそ、
人は神様の御前で心から祈り叫ぶことができるのだし、
また神様から本当に助けをいただけることを確信できるのです。

2019年11月15日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 「詩篇」38篇1〜9節(その3)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について


神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 
「詩篇」38篇1〜9節(その3)

さらに「成功の神学」の信奉者たちは、
主の使徒たちが嘲られ侮蔑され鞭打たれる聖書の箇所をも
素通りするほかありません。
このような神学によってはまったく理解することができないこと、
すなわちこの神学がまったく聖書的ではないことを
ひときわ鮮やかに示す聖書の箇所は
「ヨブ記」のとりわけ以下に引用する21章でしょう。


「なにゆえ悪しき人が生きながらえ、老齢に達し、かつ力強くなるのか。
その子らは彼らの前に堅く立ち、その子孫もその目の前に堅く立つ。
その家は安らかで、恐れがなく、神のつえは彼らの上に臨むことがない。
その雄牛は種を与えて、誤ることなく、
その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。
彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、その子らは舞い踊る。
彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、笛の音によって楽しみ、
その日をさいわいに過ごし、安らかに陰府にくだる。
彼らは神に言う、
『われわれを離れよ、われわれはあなたの道を知ることを好まない。
全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか。
われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。
見よ、彼らの繁栄は彼らの手にあるではないか。
悪人の計りごとは、わたしの遠く及ぶ所でない。」
(「ヨブ記」21章7〜16節、口語訳)

神様をないがしろにする人々の「ランプ」が暗闇の中に立ち消えることは、
この世で頻繁に見られる現象ではありません。
神様を拒む富裕層が、
あたかも口に砂利をつっこまれるような屈辱的な体験をすることは
まず起こらないといってよいでしょう。
それどころかまったく逆に、
彼らは普通なら不満の全く出ないような大成功を
この世で収めることがよくあります。

少なくとも一部のキリスト教徒にとって
「成功の神学」はとても魅力的な教えに映るようです。
しかし、これは
神様の真理とはまったく関わりのない反キリスト教的な教えなので、
断じて許容するべきではありません。

主は、御自分に従うよう御許に招かれる人々に対して、
成功や健康を保証してはくださいません。
その代わりに主は、
十字架と辛苦とを私たちに差し出され、
御言葉に書かれてある通りのことを行われます。
しかしまた、
主のみがキリスト信仰者たちに真の命を与えてくださるお方でもあるのです。

2019年11月8日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は罰を下すことがあるのでしょうか?「詩篇」38篇1〜9節(その2)

神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 「詩篇」38篇1〜9節(その2)
                                                            

「神様の罰」とはそもそもどういう意味なのか考えてみるのも時には大切です。

もしもあることがらが神様の罰なのだとしたら、
神様からはもう何も「よいこと」を期待するべきではない、
という結論になるのでしょうか。

神様の罰が何らかの意味で「よいこと」である場合ははたしてあるのでしょうか。
それとも、
神様の罰はいかなる場合にも例外なく常に「悪いこと」なのでしょうか。

この「詩篇」でも、また聖書の他の箇所においてもはっきり描かれていますが、
真なる神様は
罪には罰を下す一方で、
御心に従順な者には祝福を賜るお方です。

罪に対する罰の宣告については例えば
「マタイによる福音書」3章7節、
「ヘブライの信徒への手紙」3章11節、
「ヨハネの黙示録」6章16節などに見ることができます。

このことからどのような結論が導き出せるのでしょうか。
この世では、
粗雑な結論を性急に下したがる自称「聖書の教師」たちが
積極的に活動しています。
彼らのメッセージによれば、
金銭、健康、成功などは
「よい生活」を送った人間に対して神様が与えてくださる
「報酬」であるとされます。
ですから、
もしもそれらの要素があるキリスト教徒に欠けているならば、
それはその人のどこかに問題があるからである、ということにされます。
いわゆる「成功の神学」の信奉者たちはこのような調子で教えを垂れます。
最悪の場合には
「病気や貧困やあらゆる弱さには常に原因があるのだ」
と一方的に決めつけます。
「自分が神様に受け入れられている証拠として、
溢れるばかりに多様な賜物を与えられるほどの高みに達するまで
キリスト信仰者は自らの生活を改善していかなければならない」
といったメッセージを彼らは喧伝します。

しかしこれは、
実際に様々な苦痛に耐えている人々への同情心に欠ける冷淡な態度であり、
聖書の教えに従っているとはまったく言えません。
このような調子で聖書を理解していく者たちにとって、
キリストの受難の道を見つめることや、
御自分の民に対して十字架と苦難を与えるという主の約束に耳を傾けることは、
とうてい承服しがたいことなのです。

2019年10月30日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「詩篇」38篇 神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 38篇1〜9節(その1)

「詩篇」38篇

38:1記念のためにうたったダビデの歌
38:2主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、
激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。
38:3あなたの矢がわたしに突き刺さり、
あなたの手がわたしの上にくだりました。
38:4あなたの怒りによって、
わたしの肉には全きところなく、
わたしの罪によって、
わたしの骨には健やかなところはありません。
38:5わたしの不義はわたしの頭を越え、
重荷のように重くて負うことができません。
38:6わたしの愚かによって、
わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
38:7わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、
ひねもす悲しんで歩くのです。
38:8わたしの腰はことごとく焼け、
わたしの肉には全きところがありません。
38:9わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、
わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
38:10主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、
わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。
38:11わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、
わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
38:12わが友、わがともがらは
わたしの災を見て離れて立ち、
わが親族もまた遠く離れて立っています。
38:13わたしのいのちを求める者はわなを設け、
わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、
ひねもす欺くことをはかるのです。
38:14しかしわたしは耳のきこえない人のように聞かず、
口のきけない人のように話しません。
38:15まことに、わたしは聞かない人のごとく、
議論を口にしない人のようです。
38:16しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。
わが神、主よ、
あなたこそわたしに答えられるのです。
38:17わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、
わたしにむかって高ぶる彼らに
わたしのことによって喜ぶことを
ゆるさないでください」と。
38:18わたしは倒れるばかりになり、
わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。
38:19わたしは、みずから不義を言いあらわし、
わが罪のために悲しみます。
38:20ゆえなく、わたしに敵する者は強く、
偽ってわたしを憎む者は多いのです。
38:21悪をもって善に報いる者は、
わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。
38:22主よ、わたしを捨てないでください。
わが神よ、わたしに遠ざからないでください。
38:23主、わが救よ、
すみやかにわたしをお助けください。
(口語訳)


神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 38篇1〜9節(その1)

この「詩篇」には様々な危機の只中にある人間の姿が描かれています。
自らの罪のゆえにその人は神様と離れてしまいました。
友人たちは彼に背を向け、敵からの襲撃も受けています。
彼にとってとりわけ辛い悲しみをもたらしているのは、神様の怒りです。
詩人はきわめて具体的な苦しみを受けています。
心情的な苦悩のほかに肉体的な苦痛もまた詩人を苛んでいます。
詩人は自らの苦しみの原因を隠そうとはしません。
「神様は自分をその罪のゆえに罰しているのだ」と彼は考えます。

ここで私たちははっとします。

はたして神様は罰を下すお方なのでしょうか。
「不幸は自らの罪と神様の怒りによって生じる」
という憐れみに欠けた聖書解釈がこの「詩篇」にも表れているのでしょうか。
現代においても、人間の苦しみの原因に対して
このような冷淡な説明をもって事足れりとするべきなのでしょうか。
「私に降りかかった不幸は神様の怒りのあらわれなのでしょうか」
と苦しげに牧師に尋ねる人に対しても、
このような答え方をするべきなのでしょうか。
神様の恵みと愛はいったいどこに忘れられてしまったのでしょうか。

このような疑問が生じるのはいたって当然であり、
決して忘れてよいものではありません。
このことを踏まえた上でも、
詩人が神様の怒りの下で自らが受けた罰について
嘆き苦しんでいることにはやはり変わりがありません。

さきほどの数々の疑問に答えようとする場合、
表面的でおざなりな説明で済まされてしまうことがしばしばあります。
しかし、いざ真剣に取り組んでみると、
想像していたのとはちがって、
これが容易ならざる問題であることがわかってきます。

神様と本気で取り組み合うくらいの心構えが必要になるのです。

2019年10月22日火曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 他の人たちも学んでください! 「詩篇」32篇6〜11節



「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

他の人たちも学んでください! 「詩篇」32篇6〜11節

自らの体験について語った後で、
詩人はまず神様に感謝を捧げ、
その後に聴衆全員のほうに視線を向けます。

もしも重荷を嫌々運んでいる牛を鞭打つのと同じようにして
人を神様の御心にかなう道のほうに連れていかなければならないのだとすれば、
とても残念なことです。

すべての人間は、
この世で神様をひどくないがしろにした不信仰な生活を送った人も含めて、
最後の裁きの時が来ると神様の御前に引き出され、
自分の歩んだ人生について申し開きをしなければならなくなるからです。
ですから、
御心にかなう生き方をするほうが結局は人間にとって「楽な生き方」になります。

御心にかなう生き方とは、
公正な裁きをなさる義なる神様の御前にひれ伏して、
イエス様による罪の赦しの恵みだけが
罪深い自分を救い出してくれることを信じる生き方です。

ルターはこの「教えの詩篇」の内容を次のように要約しています。

「これは、罪とは何か、
人が罪から解放されるためにはどうするべきか、
神様の御前で人が義とされるためにはどうすべきなのか、
ということを教えています。
なぜなら、
理性は罪が何であるか知らないし、
よい行いをすれば罪を拭い去ることができると勝手に思い込んでいるからです。
ところがこの「詩篇」によれば、
キリスト信仰者も皆、罪深い存在なのであり、
聖人でも「さいわいな者」でもありません。
そうではあるものの、
彼らが神様の御前で自分たちが罪人であることを告白し、
自らの功績や行いによってではなく
恵みによってのみ神様の御前で義なる者と認めていただけることを知る場合に、
彼らは「聖なる者」や「さいわいなる者」とされるのです。」 
(マルティン・ルター)

2019年10月14日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様によって包み込まれた者として 32篇3〜5節(その3)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様によって包み込まれた者として 32篇3〜5節(その3)

ここで「義」と「キリスト信仰者にふさわしい生き方」との間の
正しい関係について考えてみることにしましょう。

ルター派の信仰理解の核心にはその出発点に
「無条件で完全な罪の赦しの恵み」があります。

この恵みはひとえに
キリストが十字架で流された血のゆえに与えられるものであり、
人間自身の行いやその業績によって左右されるものではまったくありません。

ラテン語の神学用語でこのことはimputatioと呼ばれます。
その意味は
「神様が私たちを私たち自身の罪から解放してくださるおかげで、
それらの罪はもはや『私たちの罪』とはみなされなくなる」
ということです。

赦免の判決と無代価で差し出される恵みとがすでに用意されています。
それを受け入れる人には主への愛が生まれます。
またそれに伴って、主の御言葉に従って生きようという心が与えられます。

私たち人間は罪と戦う時にも「心の底から悔い改める」ことはできません。
無代価でいただける罪の赦しの恵みのありがたみが
どれほどよくわかっているかに応じて
私たちには罪と戦う力が与えられるとも言えましょう。

2019年10月3日木曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様によって包み込まれた者として 「詩篇」32篇3〜5節(その2)

 神様によって包み込まれた者として 「詩篇」32篇3〜5節(その2)
  
「すべての罪の負債が、
しかも個人の罪のみではなく全世界のすべての罪が、
キリストの血の代償によってすっかり帳消しにされている」
というメッセージは、
十字架の御許にとどまる者にとって、
人間の理解を超越するきわめて素晴らしいものです。
ところが、
この尊い罪の赦しを「自分のもの」として受け取ることにも、
人はいつの間にかすっかり慣れてしまって、
それが当たり前のことになってしまいます。

多くのキリスト信仰者には似たような経験があると思いますが、
おそらくはそのせいで、
信仰生活が長くなるにつれて神様の御言葉を真剣に聴く姿勢が弱まったり、
神様の御心への従順な態度が薄れたりすることが起きるのでしょう。

一旦そうなってしまうと、
罪の赦しの恵みの素晴らしさを心から感謝することができなくなり、
最後の裁きにおける神様の厳しさにも鈍感になってしまいます。
「キリスト信仰者」という肩書きはつけたまま、
いつしかキリストへの信仰をひっそりと捨ててしまうのです。

もしも人が不信仰な生活をやめて、自分の罪深さを恥じ、
キリストの十字架の御許に戻り、
キリストが成し遂げられた「贖いの御業」と
そのゆえに確保された「罪の赦し」とを、
信仰を通して「自分のもの」として受け入れるということが起きるならば、
これはひとえに神様の恵みであり、聖霊様のなされた御業です。
こうした出来事は「悔い改め」や「方向転換」などと呼ばれるものです。

恵みを「自分のもの」として受け取ることは
生きているかぎりはいつでも可能です。
しかし、
こと「信仰」に関しては次のような逆説的な現象が起こります。
すなわち、キリスト信仰者は自分が実は
「キリスト信仰者」の名に値しない者であることがわからないかぎり、
信仰の本質を把握しているとは言えない、ということです。

このように見てくると、
この「詩篇」32篇の言葉は、
キリストの御許にはじめて赴こうとしている人々だけではなくて、
すでに信仰生活を日常的に送ってきたキリスト信仰者一般にも
あてはまることがわかります。

このことからも、
現代の多くのキリスト教会を蝕んでいる「ある病」がいかに危険なものか、
推察できるのではないでしょうか。
その病とは、
礼拝の説教などで「律法についての教え」がすっかり消え失せている、
ということです。
もしも神様の御言葉が、
神様の視点から見たときに何が正しく何が間違っているか
を明確に教える「律法」として働きかけ、
罪深い存在である私たち人間を必要とあらば容赦なく叱責することがなければ、
いったい誰が神様の御言葉を罪の赦しの「福音」として受け入れて、
キリストの御許に行こうとするでしょうか。