2019年10月22日火曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 他の人たちも学んでください! 「詩篇」32篇6〜11節



「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

他の人たちも学んでください! 「詩篇」32篇6〜11節

自らの体験について語った後で、
詩人はまず神様に感謝を捧げ、
その後に聴衆全員のほうに視線を向けます。

もしも重荷を嫌々運んでいる牛を鞭打つのと同じようにして
人を神様の御心にかなう道のほうに連れていかなければならないのだとすれば、
とても残念なことです。

すべての人間は、
この世で神様をひどくないがしろにした不信仰な生活を送った人も含めて、
最後の裁きの時が来ると神様の御前に引き出され、
自分の歩んだ人生について申し開きをしなければならなくなるからです。
ですから、
御心にかなう生き方をするほうが結局は人間にとって「楽な生き方」になります。

御心にかなう生き方とは、
公正な裁きをなさる義なる神様の御前にひれ伏して、
イエス様による罪の赦しの恵みだけが
罪深い自分を救い出してくれることを信じる生き方です。

ルターはこの「教えの詩篇」の内容を次のように要約しています。

「これは、罪とは何か、
人が罪から解放されるためにはどうするべきか、
神様の御前で人が義とされるためにはどうすべきなのか、
ということを教えています。
なぜなら、
理性は罪が何であるか知らないし、
よい行いをすれば罪を拭い去ることができると勝手に思い込んでいるからです。
ところがこの「詩篇」によれば、
キリスト信仰者も皆、罪深い存在なのであり、
聖人でも「さいわいな者」でもありません。
そうではあるものの、
彼らが神様の御前で自分たちが罪人であることを告白し、
自らの功績や行いによってではなく
恵みによってのみ神様の御前で義なる者と認めていただけることを知る場合に、
彼らは「聖なる者」や「さいわいなる者」とされるのです。」 
(マルティン・ルター)