「すべての罪の負債が、
しかも個人の罪のみではなく全世界のすべての罪が、
キリストの血の代償によってすっかり帳消しにされている」
というメッセージは、
十字架の御許にとどまる者にとって、
人間の理解を超越するきわめて素晴らしいものです。
ところが、
この尊い罪の赦しを「自分のもの」として受け取ることにも、
人はいつの間にかすっかり慣れてしまって、
それが当たり前のことになってしまいます。
多くのキリスト信仰者には似たような経験があると思いますが、
おそらくはそのせいで、
信仰生活が長くなるにつれて神様の御言葉を真剣に聴く姿勢が弱まったり、
神様の御心への従順な態度が薄れたりすることが起きるのでしょう。
一旦そうなってしまうと、
罪の赦しの恵みの素晴らしさを心から感謝することができなくなり、
最後の裁きにおける神様の厳しさにも鈍感になってしまいます。
「キリスト信仰者」という肩書きはつけたまま、
いつしかキリストへの信仰をひっそりと捨ててしまうのです。
もしも人が不信仰な生活をやめて、自分の罪深さを恥じ、
キリストの十字架の御許に戻り、
キリストが成し遂げられた「贖いの御業」と
そのゆえに確保された「罪の赦し」とを、
信仰を通して「自分のもの」として受け入れるということが起きるならば、
これはひとえに神様の恵みであり、聖霊様のなされた御業です。
こうした出来事は「悔い改め」や「方向転換」などと呼ばれるものです。
恵みを「自分のもの」として受け取ることは
生きているかぎりはいつでも可能です。
しかし、
こと「信仰」に関しては次のような逆説的な現象が起こります。
すなわち、キリスト信仰者は自分が実は
「キリスト信仰者」の名に値しない者であることがわからないかぎり、
信仰の本質を把握しているとは言えない、ということです。
このように見てくると、
この「詩篇」32篇の言葉は、
キリストの御許にはじめて赴こうとしている人々だけではなくて、
すでに信仰生活を日常的に送ってきたキリスト信仰者一般にも
あてはまることがわかります。
このことからも、
現代の多くのキリスト教会を蝕んでいる「ある病」がいかに危険なものか、
推察できるのではないでしょうか。
その病とは、
礼拝の説教などで「律法についての教え」がすっかり消え失せている、
ということです。
もしも神様の御言葉が、
神様の視点から見たときに何が正しく何が間違っているか
を明確に教える「律法」として働きかけ、
罪深い存在である私たち人間を必要とあらば容赦なく叱責することがなければ、
いったい誰が神様の御言葉を罪の赦しの「福音」として受け入れて、
キリストの御許に行こうとするでしょうか。