2019年11月8日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は罰を下すことがあるのでしょうか?「詩篇」38篇1〜9節(その2)

神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 「詩篇」38篇1〜9節(その2)
                                                            

「神様の罰」とはそもそもどういう意味なのか考えてみるのも時には大切です。

もしもあることがらが神様の罰なのだとしたら、
神様からはもう何も「よいこと」を期待するべきではない、
という結論になるのでしょうか。

神様の罰が何らかの意味で「よいこと」である場合ははたしてあるのでしょうか。
それとも、
神様の罰はいかなる場合にも例外なく常に「悪いこと」なのでしょうか。

この「詩篇」でも、また聖書の他の箇所においてもはっきり描かれていますが、
真なる神様は
罪には罰を下す一方で、
御心に従順な者には祝福を賜るお方です。

罪に対する罰の宣告については例えば
「マタイによる福音書」3章7節、
「ヘブライの信徒への手紙」3章11節、
「ヨハネの黙示録」6章16節などに見ることができます。

このことからどのような結論が導き出せるのでしょうか。
この世では、
粗雑な結論を性急に下したがる自称「聖書の教師」たちが
積極的に活動しています。
彼らのメッセージによれば、
金銭、健康、成功などは
「よい生活」を送った人間に対して神様が与えてくださる
「報酬」であるとされます。
ですから、
もしもそれらの要素があるキリスト教徒に欠けているならば、
それはその人のどこかに問題があるからである、ということにされます。
いわゆる「成功の神学」の信奉者たちはこのような調子で教えを垂れます。
最悪の場合には
「病気や貧困やあらゆる弱さには常に原因があるのだ」
と一方的に決めつけます。
「自分が神様に受け入れられている証拠として、
溢れるばかりに多様な賜物を与えられるほどの高みに達するまで
キリスト信仰者は自らの生活を改善していかなければならない」
といったメッセージを彼らは喧伝します。

しかしこれは、
実際に様々な苦痛に耐えている人々への同情心に欠ける冷淡な態度であり、
聖書の教えに従っているとはまったく言えません。
このような調子で聖書を理解していく者たちにとって、
キリストの受難の道を見つめることや、
御自分の民に対して十字架と苦難を与えるという主の約束に耳を傾けることは、
とうてい承服しがたいことなのです。