2019年10月30日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「詩篇」38篇 神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 38篇1〜9節(その1)

「詩篇」38篇

38:1記念のためにうたったダビデの歌
38:2主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、
激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。
38:3あなたの矢がわたしに突き刺さり、
あなたの手がわたしの上にくだりました。
38:4あなたの怒りによって、
わたしの肉には全きところなく、
わたしの罪によって、
わたしの骨には健やかなところはありません。
38:5わたしの不義はわたしの頭を越え、
重荷のように重くて負うことができません。
38:6わたしの愚かによって、
わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
38:7わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、
ひねもす悲しんで歩くのです。
38:8わたしの腰はことごとく焼け、
わたしの肉には全きところがありません。
38:9わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、
わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
38:10主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、
わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。
38:11わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、
わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
38:12わが友、わがともがらは
わたしの災を見て離れて立ち、
わが親族もまた遠く離れて立っています。
38:13わたしのいのちを求める者はわなを設け、
わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、
ひねもす欺くことをはかるのです。
38:14しかしわたしは耳のきこえない人のように聞かず、
口のきけない人のように話しません。
38:15まことに、わたしは聞かない人のごとく、
議論を口にしない人のようです。
38:16しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。
わが神、主よ、
あなたこそわたしに答えられるのです。
38:17わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、
わたしにむかって高ぶる彼らに
わたしのことによって喜ぶことを
ゆるさないでください」と。
38:18わたしは倒れるばかりになり、
わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。
38:19わたしは、みずから不義を言いあらわし、
わが罪のために悲しみます。
38:20ゆえなく、わたしに敵する者は強く、
偽ってわたしを憎む者は多いのです。
38:21悪をもって善に報いる者は、
わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。
38:22主よ、わたしを捨てないでください。
わが神よ、わたしに遠ざからないでください。
38:23主、わが救よ、
すみやかにわたしをお助けください。
(口語訳)


神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 38篇1〜9節(その1)

この「詩篇」には様々な危機の只中にある人間の姿が描かれています。
自らの罪のゆえにその人は神様と離れてしまいました。
友人たちは彼に背を向け、敵からの襲撃も受けています。
彼にとってとりわけ辛い悲しみをもたらしているのは、神様の怒りです。
詩人はきわめて具体的な苦しみを受けています。
心情的な苦悩のほかに肉体的な苦痛もまた詩人を苛んでいます。
詩人は自らの苦しみの原因を隠そうとはしません。
「神様は自分をその罪のゆえに罰しているのだ」と彼は考えます。

ここで私たちははっとします。

はたして神様は罰を下すお方なのでしょうか。
「不幸は自らの罪と神様の怒りによって生じる」
という憐れみに欠けた聖書解釈がこの「詩篇」にも表れているのでしょうか。
現代においても、人間の苦しみの原因に対して
このような冷淡な説明をもって事足れりとするべきなのでしょうか。
「私に降りかかった不幸は神様の怒りのあらわれなのでしょうか」
と苦しげに牧師に尋ねる人に対しても、
このような答え方をするべきなのでしょうか。
神様の恵みと愛はいったいどこに忘れられてしまったのでしょうか。

このような疑問が生じるのはいたって当然であり、
決して忘れてよいものではありません。
このことを踏まえた上でも、
詩人が神様の怒りの下で自らが受けた罰について
嘆き苦しんでいることにはやはり変わりがありません。

さきほどの数々の疑問に答えようとする場合、
表面的でおざなりな説明で済まされてしまうことがしばしばあります。
しかし、いざ真剣に取り組んでみると、
想像していたのとはちがって、
これが容易ならざる問題であることがわかってきます。

神様と本気で取り組み合うくらいの心構えが必要になるのです。