弟子たちに用意されている報酬 10章28~31節
マルコによる福音書は、弟子たちの「受ける分」についてのイエス様の御言葉を伝えています。多くの人たちは、主に従う中で、多くのものを捨てなければならなくなりました。イエス様がおそばに召された人たちはとりわけ厳しい目に遭いました。さらに悪いことに、来るべき迫害さえもが予告されています。しかし、イエス様は御自分に属する者たちに、すでにこの世の時において「豊かな人生」を、さらに、来るべき時には「永遠の命」をも約束してくださっています。ただし、この約束には、「人は神様の御国の宝を、それと気付かないうちにいともたやすく失ってしまうものである」という警告が伴っています。
3度目の受難の予告 10章32~34節
イエス様が来るべき御受難について弟子たちに告げられたのは、これで3度目です。今回の内容は前の2回よりも詳細になっています。神様はイエス様を大祭司や律法学者たちの手に渡される、というのです。イエス様は(最高会議で)死を宣告され、異邦人たちに(ローマ人たちに)引き渡されます。この受難告知には、弟子たちの先に立ってエルサレムへと向かって進まれるイエス様の揺るぎのない決意も語られています。苦難と死が待ち受けているのを知りつつもそれらへ向けて歩んでいかれる、このイエス様の姿勢は弟子たちの間に困惑と恐れを呼び起こします。お父様が御子にお与えになった「道」を、イエス様は一歩たりとも踏み外したりはなさいませんでした。この「道」はまた聖書にあらかじめ示されていた道でもありました。
フィンランド・ルーテル福音協会は1900年以来日本にルター派の宣教師を派遣し続けてきました。このブログでは、この宣教師団体の聖書や信仰生活に関する教えをフィンランド語から日本語に翻訳して紹介します。(夏は不定期更新になります)。
2009年4月6日月曜日
2009年4月3日金曜日
マルコによる福音書について 10章17~27節
富の危険 10章17~27節
イエス様は数え切れないほどの人たちを教え、きっと何千人もの人たちと個人的に話し合われたことでしょう。聖書は、イエス様がどのようにしてひとりの人を弟子として召されるかについて、何度か語っています。今の箇所でこのような召しを受けることになる男の人が登場します。彼は、人生のもっとも大切な質問に対してイエス様から答えを得ようとしました。イエス様のはじめの答えは基本的な答えでした。しかし、男はそれには満足しませんでした。イエス様の次の答えは彼にとって爆弾のようなものでした。彼はその答えを聞いて、もはやイエス様と話し合う気をなくしてしまいました。イエス様は金持ちの男に、「持ち物を全部売り払って貧しい人たちに分け与え、こうして天に富を積んで、それから私に従いなさい」と命じられたのです。しかし、男には、すべてをイエス様にゆだねて自分の人生のあり方をまったく変えてしまうような信仰はありませんでした。それで、彼はイエス様のみもとを立ち去りました。お金は懐にかかえたまま、その実、ひどく困窮して。今回のイエス様の召しは「うつろな耳」に響いたのでした。この出来事には、富の危険についてのイエス様の深刻な警告が含まれています。金持ちが神様の御国に入るのは、非常に難しい、というか、はっきり言えば、不可能なことなのです。お金が人を縛りつけ、連れ去ってしまいます。弟子たちは天の門の狭さに驚きます。救いはまさしく神様のみわざとしてのみ可能なのであって、人自身の行いによっては無理なのです。
イエス様は数え切れないほどの人たちを教え、きっと何千人もの人たちと個人的に話し合われたことでしょう。聖書は、イエス様がどのようにしてひとりの人を弟子として召されるかについて、何度か語っています。今の箇所でこのような召しを受けることになる男の人が登場します。彼は、人生のもっとも大切な質問に対してイエス様から答えを得ようとしました。イエス様のはじめの答えは基本的な答えでした。しかし、男はそれには満足しませんでした。イエス様の次の答えは彼にとって爆弾のようなものでした。彼はその答えを聞いて、もはやイエス様と話し合う気をなくしてしまいました。イエス様は金持ちの男に、「持ち物を全部売り払って貧しい人たちに分け与え、こうして天に富を積んで、それから私に従いなさい」と命じられたのです。しかし、男には、すべてをイエス様にゆだねて自分の人生のあり方をまったく変えてしまうような信仰はありませんでした。それで、彼はイエス様のみもとを立ち去りました。お金は懐にかかえたまま、その実、ひどく困窮して。今回のイエス様の召しは「うつろな耳」に響いたのでした。この出来事には、富の危険についてのイエス様の深刻な警告が含まれています。金持ちが神様の御国に入るのは、非常に難しい、というか、はっきり言えば、不可能なことなのです。お金が人を縛りつけ、連れ去ってしまいます。弟子たちは天の門の狭さに驚きます。救いはまさしく神様のみわざとしてのみ可能なのであって、人自身の行いによっては無理なのです。
2009年4月1日水曜日
マルコによる福音書について 10章13~16節
子どもたちを祝福なさるイエス様 10章13~16節
イエス様が子どもを祝福なさるこの箇所(「子どもの福音」)はよく知られ、人々に愛されている箇所です。ユダヤ人たちは、律法遵守の義務を成人に対してだけ負わせました。このことに基づいて、弟子たちは、「子どもたちはイエス様の教えを受けるにはまだ幼すぎる」と考えたのでした。ところが、イエス様は違う教え方をなさいます。子どもは大人と比べて未熟な存在などではなく、逆に、大人が「模範」とすべき存在なのです!人は神様の御国を子どものように受け入れなければなりません。神様に認めていただけるのは、大人や、いろいろなことがよくできる者ではなく、子供たちなのです。ところが、人々は「子どもたちが神様にお仕えすることなどはまだとうていできはしない」などと思い込んでいたのでした。このことは、より広大な(救いの歴史の)全体の中にあらわれる特徴のひとつです。すなわち、福音によれば、「終末が近づいている時」には、この世の価値観は他の場合に関しても転倒してしまいます。たとえば、金持ちは傍らへ斥けられ、貧乏人は受け入れられます。「立派な人」は捨てられ、収税人や娼婦が神様の御国の中に入っていきます。同じように、とても賢い大人たちはここで、イエス様が子どもを正しい信仰者の模範として置かれるさまを、その傍らから眺めることになりました。
イエス様が子どもを祝福なさるこの箇所(「子どもの福音」)はよく知られ、人々に愛されている箇所です。ユダヤ人たちは、律法遵守の義務を成人に対してだけ負わせました。このことに基づいて、弟子たちは、「子どもたちはイエス様の教えを受けるにはまだ幼すぎる」と考えたのでした。ところが、イエス様は違う教え方をなさいます。子どもは大人と比べて未熟な存在などではなく、逆に、大人が「模範」とすべき存在なのです!人は神様の御国を子どものように受け入れなければなりません。神様に認めていただけるのは、大人や、いろいろなことがよくできる者ではなく、子供たちなのです。ところが、人々は「子どもたちが神様にお仕えすることなどはまだとうていできはしない」などと思い込んでいたのでした。このことは、より広大な(救いの歴史の)全体の中にあらわれる特徴のひとつです。すなわち、福音によれば、「終末が近づいている時」には、この世の価値観は他の場合に関しても転倒してしまいます。たとえば、金持ちは傍らへ斥けられ、貧乏人は受け入れられます。「立派な人」は捨てられ、収税人や娼婦が神様の御国の中に入っていきます。同じように、とても賢い大人たちはここで、イエス様が子どもを正しい信仰者の模範として置かれるさまを、その傍らから眺めることになりました。
2009年3月19日木曜日
マルコによる福音書について 10章1~12節
誰が一番えらいのでしょうか?
マルコによる福音書10章
離婚についてのイエス様の教え 10章1~12節
マルコによる福音書の1章から8章までは、ガリラヤでのイエス様の活動が描かれています。イエス様がいくつかの例外を除けば、とても狭い地域で活動なさっていたことを、ここではおさえておきましょう。イエス様は、今までは真の中心地、エルサレムには来られませんでしたが、この10章ではとうとうユダ地方に到着されました。イエス様の周りに集まった大勢の人たちの運動については、もちろんエルサレムにもすでに知られていました。それゆえ、緊張した雰囲気の中で、ファリサイ人たちはイエス様がどのようなお方か確かめようとしたのでした。イエス様の教えの信憑性を試すため、はじめの質問として「離婚」がとりあげられました。結婚はユダヤ人たちにとって聖なるものであり、神様御自身が設定なさったものです。申命記24章1~4節は、夫が妻を離婚して立ち去らせようとする場合には、妻に離婚証書を与えるようにと、要求しています。これについてどう思うか、イエス様は質問を受けました。それに対してイエス様は、ユダヤ人のやり方に従って、逆に質問を投げかけることによってお答えになりました。「モーセは夫が離婚証書を書いて妻を捨てることを許している」とファリサイ人たちは考えていました。しかし、イエス様はこれとは違う教えをなさいます。それは、「離婚証書についてのモーセの規定は、夫のかたくなな心に対して妻を守るために与えられている」というものです。すなわち、心をかたくなにした夫が妻を捨てる場合には、彼は妻に「この女は新たに結婚することができる」ことを証明する文書を与えなければなりません。当時、夫から捨てられた女性は、再婚しない場合には、貧窮するか、あるいは、娼婦になるか、事実上この二つしか選択肢がなかったのです。離婚は神様の創造のみわざの目的に沿ってはいません。結婚は神様が設定なさったものであり、そこでふたりの人が「ひとつの肉」となり、彼らはひとつの存在となるのです。神様がこうして男と女をひとつに結び付けてくださったので、人はもはや結婚という契約を取り消すことができません。モーセは離婚を許したのでは毛頭なく、逆に、心をかたくなにした夫の恥知らずな数々の行いから、女性を守ったのです。弟子たちに対しては、イエス様はこの問題についてさらに、「離婚の後の再婚は神様の御心に反することであり、罪である」と教えられました。力強い教えによって、イエス様は女性たちを、それまで彼らがユダヤ教の社会の中ではもちえなかったような「立場」に引き上げました。妻を捨てる者は、神様に対してだけではなく、妻に対してもまた、罪を犯しているのです。女は、男たちの話題にあがる「物」などではありません。困窮するか娼婦に身を落とすかの選択を、男が勝手に女に迫る権利などもありはしないのです。神様は人を男と女として創造なさり、男と女はひとつの肉となります。イエス様は、御自分の行いによって、その教えをどのように実行するべきか、示されています。マルタとラザロの姉妹マリアは、たんにすばらしい給仕であっただけではありません。彼女はまずもって、主の足元で主の教えに聞き入っている「弟子」でした(ルカによる福音書10章38~42節)。
悪いうわさが立てられることも気にせずに、イエス様は女たち(中には未婚者も既婚者もいました)に、御自分と共に行動しその教えに従うことを許されました(ルカによる福音書8章1~4節)。女たちはまた、イエス様の復活の知らせを伝えるために、空っぽの墓から駆け出して行きました。初期の教会はイエス様のはじめられた革新的なやり方から逸脱したりせずに、イエス様の教えに忠実に活動をつづけました。女性は、男性と同様に、最初から「教会の会員」でした。たとえば、聖書で名が挙げられている最初のヨーロッパのクリスチャンはルデアという女性です(使徒の働き16章11~15節)。女性はまた、教会で積極的に活動していました。たとえば、ローマの信徒への手紙16章にある、9人の女性たちへのパウロの挨拶や、プリスカの活動(使徒の働き18章24~28節)などが挙げられます。にもかかわらず、教会の牧師職は男性だけのものであるという制限が与えられています(コリントの信徒への第1の手紙14章33~40節)。ここで教会は「主の命令」(37節)に全幅の信頼を寄せて、使徒の職に男性だけを選ばれたイエス様を模範としているのです。
マルコによる福音書10章
離婚についてのイエス様の教え 10章1~12節
マルコによる福音書の1章から8章までは、ガリラヤでのイエス様の活動が描かれています。イエス様がいくつかの例外を除けば、とても狭い地域で活動なさっていたことを、ここではおさえておきましょう。イエス様は、今までは真の中心地、エルサレムには来られませんでしたが、この10章ではとうとうユダ地方に到着されました。イエス様の周りに集まった大勢の人たちの運動については、もちろんエルサレムにもすでに知られていました。それゆえ、緊張した雰囲気の中で、ファリサイ人たちはイエス様がどのようなお方か確かめようとしたのでした。イエス様の教えの信憑性を試すため、はじめの質問として「離婚」がとりあげられました。結婚はユダヤ人たちにとって聖なるものであり、神様御自身が設定なさったものです。申命記24章1~4節は、夫が妻を離婚して立ち去らせようとする場合には、妻に離婚証書を与えるようにと、要求しています。これについてどう思うか、イエス様は質問を受けました。それに対してイエス様は、ユダヤ人のやり方に従って、逆に質問を投げかけることによってお答えになりました。「モーセは夫が離婚証書を書いて妻を捨てることを許している」とファリサイ人たちは考えていました。しかし、イエス様はこれとは違う教えをなさいます。それは、「離婚証書についてのモーセの規定は、夫のかたくなな心に対して妻を守るために与えられている」というものです。すなわち、心をかたくなにした夫が妻を捨てる場合には、彼は妻に「この女は新たに結婚することができる」ことを証明する文書を与えなければなりません。当時、夫から捨てられた女性は、再婚しない場合には、貧窮するか、あるいは、娼婦になるか、事実上この二つしか選択肢がなかったのです。離婚は神様の創造のみわざの目的に沿ってはいません。結婚は神様が設定なさったものであり、そこでふたりの人が「ひとつの肉」となり、彼らはひとつの存在となるのです。神様がこうして男と女をひとつに結び付けてくださったので、人はもはや結婚という契約を取り消すことができません。モーセは離婚を許したのでは毛頭なく、逆に、心をかたくなにした夫の恥知らずな数々の行いから、女性を守ったのです。弟子たちに対しては、イエス様はこの問題についてさらに、「離婚の後の再婚は神様の御心に反することであり、罪である」と教えられました。力強い教えによって、イエス様は女性たちを、それまで彼らがユダヤ教の社会の中ではもちえなかったような「立場」に引き上げました。妻を捨てる者は、神様に対してだけではなく、妻に対してもまた、罪を犯しているのです。女は、男たちの話題にあがる「物」などではありません。困窮するか娼婦に身を落とすかの選択を、男が勝手に女に迫る権利などもありはしないのです。神様は人を男と女として創造なさり、男と女はひとつの肉となります。イエス様は、御自分の行いによって、その教えをどのように実行するべきか、示されています。マルタとラザロの姉妹マリアは、たんにすばらしい給仕であっただけではありません。彼女はまずもって、主の足元で主の教えに聞き入っている「弟子」でした(ルカによる福音書10章38~42節)。
悪いうわさが立てられることも気にせずに、イエス様は女たち(中には未婚者も既婚者もいました)に、御自分と共に行動しその教えに従うことを許されました(ルカによる福音書8章1~4節)。女たちはまた、イエス様の復活の知らせを伝えるために、空っぽの墓から駆け出して行きました。初期の教会はイエス様のはじめられた革新的なやり方から逸脱したりせずに、イエス様の教えに忠実に活動をつづけました。女性は、男性と同様に、最初から「教会の会員」でした。たとえば、聖書で名が挙げられている最初のヨーロッパのクリスチャンはルデアという女性です(使徒の働き16章11~15節)。女性はまた、教会で積極的に活動していました。たとえば、ローマの信徒への手紙16章にある、9人の女性たちへのパウロの挨拶や、プリスカの活動(使徒の働き18章24~28節)などが挙げられます。にもかかわらず、教会の牧師職は男性だけのものであるという制限が与えられています(コリントの信徒への第1の手紙14章33~40節)。ここで教会は「主の命令」(37節)に全幅の信頼を寄せて、使徒の職に男性だけを選ばれたイエス様を模範としているのです。
2009年3月16日月曜日
マルコによる福音書 第9回目の終わりのメッセージ
終わりのメッセージ
「もしも滅びの裁きを宣告する任務が光栄なものだとすれば、義を宣告する任務は、それよりもはるかに栄光にみちたものです。」(コリントの信徒への第2の手紙3章9節)
ここで使徒パウロが書いていることをクリスチャンはきちんと学ぶようにしてください。異端教師の権威ぶった教えや、悪魔のわなである「人を苦しめる考え」などは気にしないように!悪魔は律法を引き合いに出して、人が義を自分自身の行いによってさがしもとめるようにしむけ、「救われるためには、お前は本当はあれもこれもやらなければならなかったのだ」などという考えを吹き込んで、あなたの心をいたぶります。しかし、あなたは悪魔からその武器をうばいとってこう言わなければなりません。
「なぜお前は律法や行いを引き合いに出して私をいたぶるのか。お前がどんなに長く説教したとしても、罪や死や地獄を私の上にかき集めてくるだけではないか!そんなことをしても、私は神様の御前で自分の義をいただくことはできないのだ!」
聖パウロがこの箇所で「律法の栄光」について書いていることがらは、ユダヤ人の教師たちが自分の行いを誇るときに引用する箇所でもありますが、もともとは出エジプト記20章と34章にある出来事にもとづいています。そこでは、神様が王にふさわしい大いなる栄光をまとって天からおりてこられたときに律法がどのようにして与えられたか、について語られています。稲妻の閃光と雷動のなかでシナイ山全体が炎に包まれました。律法の板をかかえて山からおりてきたモーセの顔はあまりにも輝いていたため、イスラエルの民はモーセを直視することができず、モーセは顔に覆いをかけなければなりませんでした。ユダヤ人の教師たちがあまりにも自分の行いを誇り高ぶっているために、聖パウロは次のようなことを一息に話し始めたのでした。
「たしかにこれも王様の栄光ではあります。しかし、この栄光は人を神様から逃げ出させ、死と地獄に追いやることしかしません。それとは逆に、私たちにはまったく異なる「任務」の栄光があり、これについて私たちは誇りを持っています。マタイによる福音書17章2~4節の福音によれば、キリストは太陽のように輝いている御顔の栄光を、弟子たちがはっきりと見れるようになさいました。弟子たちは逃げ出したりはせず、そのお顔にうれしそうにうっとりとみとれていました。そしてこう言いました。「主よ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。もしもお望みでしたら、私たちはここに三つの幕屋を立てたいと思います。」。」
これら二つのイメージをくらべてごらんなさい。そうすれば、使徒が何を意味していたのかが、わかります。前にも言ったように、律法は、その光が私たちの心の奥まで照らして、私たちがそれを本当にしるようになったときには、どんな人にも恐れと死をもたらすだけなのです。それとはちがって、福音は、慰めと平和と喜びとを与えてくれます。
フレドリック・ガブリエル・ヘドベルグ (「救いへの唯一の道」)
「もしも滅びの裁きを宣告する任務が光栄なものだとすれば、義を宣告する任務は、それよりもはるかに栄光にみちたものです。」(コリントの信徒への第2の手紙3章9節)
ここで使徒パウロが書いていることをクリスチャンはきちんと学ぶようにしてください。異端教師の権威ぶった教えや、悪魔のわなである「人を苦しめる考え」などは気にしないように!悪魔は律法を引き合いに出して、人が義を自分自身の行いによってさがしもとめるようにしむけ、「救われるためには、お前は本当はあれもこれもやらなければならなかったのだ」などという考えを吹き込んで、あなたの心をいたぶります。しかし、あなたは悪魔からその武器をうばいとってこう言わなければなりません。
「なぜお前は律法や行いを引き合いに出して私をいたぶるのか。お前がどんなに長く説教したとしても、罪や死や地獄を私の上にかき集めてくるだけではないか!そんなことをしても、私は神様の御前で自分の義をいただくことはできないのだ!」
聖パウロがこの箇所で「律法の栄光」について書いていることがらは、ユダヤ人の教師たちが自分の行いを誇るときに引用する箇所でもありますが、もともとは出エジプト記20章と34章にある出来事にもとづいています。そこでは、神様が王にふさわしい大いなる栄光をまとって天からおりてこられたときに律法がどのようにして与えられたか、について語られています。稲妻の閃光と雷動のなかでシナイ山全体が炎に包まれました。律法の板をかかえて山からおりてきたモーセの顔はあまりにも輝いていたため、イスラエルの民はモーセを直視することができず、モーセは顔に覆いをかけなければなりませんでした。ユダヤ人の教師たちがあまりにも自分の行いを誇り高ぶっているために、聖パウロは次のようなことを一息に話し始めたのでした。
「たしかにこれも王様の栄光ではあります。しかし、この栄光は人を神様から逃げ出させ、死と地獄に追いやることしかしません。それとは逆に、私たちにはまったく異なる「任務」の栄光があり、これについて私たちは誇りを持っています。マタイによる福音書17章2~4節の福音によれば、キリストは太陽のように輝いている御顔の栄光を、弟子たちがはっきりと見れるようになさいました。弟子たちは逃げ出したりはせず、そのお顔にうれしそうにうっとりとみとれていました。そしてこう言いました。「主よ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。もしもお望みでしたら、私たちはここに三つの幕屋を立てたいと思います。」。」
これら二つのイメージをくらべてごらんなさい。そうすれば、使徒が何を意味していたのかが、わかります。前にも言ったように、律法は、その光が私たちの心の奥まで照らして、私たちがそれを本当にしるようになったときには、どんな人にも恐れと死をもたらすだけなのです。それとはちがって、福音は、慰めと平和と喜びとを与えてくれます。
フレドリック・ガブリエル・ヘドベルグ (「救いへの唯一の道」)
2009年3月12日木曜日
マルコによる福音書について 第9回目の質問
第9回目の集まりのために
マルコによる福音書9章2~50節
イエス様は「輝きの山」で御自分の本来のお姿を示され、御自分に対して無理解な人々の中で活動をつづけられます。
1)輝きの山で信仰は目に見えるものに変わりました。それは、御子についての父なる神様御自身の力強い証でした。ふつう私たちクリスチャンは、目には見えないものを信じることで満足しなければならないものです。輝きの山にはまた象徴的な意味もあります。それは強烈な信仰体験です。
あなたがたにはこうした「輝きの山」での体験がありますか。こうした体験は(クリスチャンにとって)必要不可欠のものでしょうか。
2)ペテロの第2の手紙1章16~21節を読んでください。この箇所はクリスチャンに対して「使徒による証」がどのような意味をもっている、と語っているのでしょうか。
3)人間の魂は死んだ後で肉体から別の肉体へと移り行くものでしょうか。たとえばコリントの信徒への第1の手紙15章35~36節を読んでください。
4)24節で子どもの父親は自分の信仰を大声で告白し、それと同時に、不信仰の中にいる自分を助けてくださるようにイエス様に頼みました。どのような信仰ならイエス様に受け入れていただけるのでしょうか。私たちの人生の中では信仰と不信仰が別々に並んでいるのではなくて、むしろ互いに入り組んでいるものですが、そのことについて自分の体験を話し合ってください。
5)イエス様に聞かれたくはなかった自分たちの話し合いを聞かれてしまって、弟子たちは困ってしまいました(9章33~37節)。
「イエス様が家のかしらであって、すべての話し合いに耳を傾けている目に見えない聞き手であること」を語る文が額にはめられて壁にかかっている家があります。イエス様はあなたがたの家でどのようなことを聞くことになってしまったのでしょうか。そして、それでもイエス様はまだそこに住んでくださるのでしょうか。
7)新約聖書はイエス様の互いに正反対であるようなふたつの御言葉を書き留めています。それらは、「私たちに反対しない者は、私たちの見方です」(マルコによる福音書9章40節)と「私の側ではない者は、私に反対する者であり、私と共に集めない者は、散らすのです」(マタイによる福音書12章30節)というものです。互いに異なる御言葉には、それぞれ別の背景があります。どのような状況にこれらの御言葉はそれぞれ合致しているのでしょうか。
8)他の人たちを信仰から引き離すように誘惑する人々は非常に厳しい裁きを受けることになる、とイエス様は言われています(9章42節)。牧師や教師や両親たちが、ここでイエス様が警告なさっている「惨めな結末」を避けるためには、どうしたらよいのでしょう。
9)イエス様は「御自分に属する者たち」に、信仰生活の「目的」をはっきり心に刻んでおくように忠告なさっています。人が神様の御国の中に入ることの大切さに比べたら、他のことは何の意味も持たないほどです。また、もしも人が地獄に落ちてしまうならば、人生でどんなに立派なことを実現したとしても、何の役にも立ちません。
どのような誘惑が、私たちクリスチャンにとってとりわけ危険なものでしょうか。はたして私たちは、イエス様が要求されているように、目を覚ましていて、神様の御国のためならばどのようなことでも捨て去る用意ができているでしょうか。
10)49節にある「火」とはどういう意味でしょうか。
11)塩で味付けなければならないささげものについてのイエス様の御言葉はどういう意味なのでしょうか。「ささげもの」とは何であり、「塩」とは何なのでしょう。どのようにして「塩の味」が抜けてしまうのでしょうか。
マルコによる福音書9章2~50節
イエス様は「輝きの山」で御自分の本来のお姿を示され、御自分に対して無理解な人々の中で活動をつづけられます。
1)輝きの山で信仰は目に見えるものに変わりました。それは、御子についての父なる神様御自身の力強い証でした。ふつう私たちクリスチャンは、目には見えないものを信じることで満足しなければならないものです。輝きの山にはまた象徴的な意味もあります。それは強烈な信仰体験です。
あなたがたにはこうした「輝きの山」での体験がありますか。こうした体験は(クリスチャンにとって)必要不可欠のものでしょうか。
2)ペテロの第2の手紙1章16~21節を読んでください。この箇所はクリスチャンに対して「使徒による証」がどのような意味をもっている、と語っているのでしょうか。
3)人間の魂は死んだ後で肉体から別の肉体へと移り行くものでしょうか。たとえばコリントの信徒への第1の手紙15章35~36節を読んでください。
4)24節で子どもの父親は自分の信仰を大声で告白し、それと同時に、不信仰の中にいる自分を助けてくださるようにイエス様に頼みました。どのような信仰ならイエス様に受け入れていただけるのでしょうか。私たちの人生の中では信仰と不信仰が別々に並んでいるのではなくて、むしろ互いに入り組んでいるものですが、そのことについて自分の体験を話し合ってください。
5)イエス様に聞かれたくはなかった自分たちの話し合いを聞かれてしまって、弟子たちは困ってしまいました(9章33~37節)。
「イエス様が家のかしらであって、すべての話し合いに耳を傾けている目に見えない聞き手であること」を語る文が額にはめられて壁にかかっている家があります。イエス様はあなたがたの家でどのようなことを聞くことになってしまったのでしょうか。そして、それでもイエス様はまだそこに住んでくださるのでしょうか。
7)新約聖書はイエス様の互いに正反対であるようなふたつの御言葉を書き留めています。それらは、「私たちに反対しない者は、私たちの見方です」(マルコによる福音書9章40節)と「私の側ではない者は、私に反対する者であり、私と共に集めない者は、散らすのです」(マタイによる福音書12章30節)というものです。互いに異なる御言葉には、それぞれ別の背景があります。どのような状況にこれらの御言葉はそれぞれ合致しているのでしょうか。
8)他の人たちを信仰から引き離すように誘惑する人々は非常に厳しい裁きを受けることになる、とイエス様は言われています(9章42節)。牧師や教師や両親たちが、ここでイエス様が警告なさっている「惨めな結末」を避けるためには、どうしたらよいのでしょう。
9)イエス様は「御自分に属する者たち」に、信仰生活の「目的」をはっきり心に刻んでおくように忠告なさっています。人が神様の御国の中に入ることの大切さに比べたら、他のことは何の意味も持たないほどです。また、もしも人が地獄に落ちてしまうならば、人生でどんなに立派なことを実現したとしても、何の役にも立ちません。
どのような誘惑が、私たちクリスチャンにとってとりわけ危険なものでしょうか。はたして私たちは、イエス様が要求されているように、目を覚ましていて、神様の御国のためならばどのようなことでも捨て去る用意ができているでしょうか。
10)49節にある「火」とはどういう意味でしょうか。
11)塩で味付けなければならないささげものについてのイエス様の御言葉はどういう意味なのでしょうか。「ささげもの」とは何であり、「塩」とは何なのでしょう。どのようにして「塩の味」が抜けてしまうのでしょうか。
マルコによる福音書について 9章41~50節
気をつけなさい! 9章41~50節
イエス様はクリスチャンにとって躓きとなる誘惑について話されます。「キリストのもの」である者たちが信仰を捨て去るようにしむける人々がいます。そのような人間の受ける裁きは厳しく情け容赦のないものになります。この罪以上の厳しさで裁かれている犯罪は、聖書の中にはあまりありません。「キリストのもの」である人たちに対して、そうした誘惑に耳を貸さないように、という厳しい警告がここで与えられているわけです。イエス様の御言葉の内容は明瞭です。大切なのはたったひとつのことだけです。すなわち、人がいつか神様の御国の中に入ることです。これと比べたら、あらゆる誘惑に対する極端な反対さえも、行き過ぎた否定的態度ではありえません。もしも人が神様の御国の中に入れないならば、その人にとって、たとえば「健康」などは陰府では何の役にも立ちません。三番目の警告もまた「キリストのもの」である人たちに対してです。この箇所は非常に難解です。たとえば次のように理解することができるでしょう。イエス様に属する人は皆、火の様な試練に遭い、神様の御国のために自分を捨てざるをえなくなります。このような人は、「モーセの律法にしたがって塩によって味付けされた神様へのささげもの」のような存在です。「塩味の付けられた」というのは、「イエス様とその御国とに結びつけられた」ということでしょう。にもかかわらず、こうした塩をもつ人が、自分で考えているよりもいともたやすくその塩を失ってしまうことがあるのです。そうした危険について、イエス様はここで厳粛に警告なさっています。
イエス様はクリスチャンにとって躓きとなる誘惑について話されます。「キリストのもの」である者たちが信仰を捨て去るようにしむける人々がいます。そのような人間の受ける裁きは厳しく情け容赦のないものになります。この罪以上の厳しさで裁かれている犯罪は、聖書の中にはあまりありません。「キリストのもの」である人たちに対して、そうした誘惑に耳を貸さないように、という厳しい警告がここで与えられているわけです。イエス様の御言葉の内容は明瞭です。大切なのはたったひとつのことだけです。すなわち、人がいつか神様の御国の中に入ることです。これと比べたら、あらゆる誘惑に対する極端な反対さえも、行き過ぎた否定的態度ではありえません。もしも人が神様の御国の中に入れないならば、その人にとって、たとえば「健康」などは陰府では何の役にも立ちません。三番目の警告もまた「キリストのもの」である人たちに対してです。この箇所は非常に難解です。たとえば次のように理解することができるでしょう。イエス様に属する人は皆、火の様な試練に遭い、神様の御国のために自分を捨てざるをえなくなります。このような人は、「モーセの律法にしたがって塩によって味付けされた神様へのささげもの」のような存在です。「塩味の付けられた」というのは、「イエス様とその御国とに結びつけられた」ということでしょう。にもかかわらず、こうした塩をもつ人が、自分で考えているよりもいともたやすくその塩を失ってしまうことがあるのです。そうした危険について、イエス様はここで厳粛に警告なさっています。
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