2009年3月12日木曜日

マルコによる福音書について 第9回目の質問

第9回目の集まりのために

マルコによる福音書9章2~50節

イエス様は「輝きの山」で御自分の本来のお姿を示され、御自分に対して無理解な人々の中で活動をつづけられます。

1)輝きの山で信仰は目に見えるものに変わりました。それは、御子についての父なる神様御自身の力強い証でした。ふつう私たちクリスチャンは、目には見えないものを信じることで満足しなければならないものです。輝きの山にはまた象徴的な意味もあります。それは強烈な信仰体験です。
あなたがたにはこうした「輝きの山」での体験がありますか。こうした体験は(クリスチャンにとって)必要不可欠のものでしょうか。

2)ペテロの第2の手紙1章16~21節を読んでください。この箇所はクリスチャンに対して「使徒による証」がどのような意味をもっている、と語っているのでしょうか。

3)人間の魂は死んだ後で肉体から別の肉体へと移り行くものでしょうか。たとえばコリントの信徒への第1の手紙15章35~36節を読んでください。

4)24節で子どもの父親は自分の信仰を大声で告白し、それと同時に、不信仰の中にいる自分を助けてくださるようにイエス様に頼みました。どのような信仰ならイエス様に受け入れていただけるのでしょうか。私たちの人生の中では信仰と不信仰が別々に並んでいるのではなくて、むしろ互いに入り組んでいるものですが、そのことについて自分の体験を話し合ってください。

5)イエス様に聞かれたくはなかった自分たちの話し合いを聞かれてしまって、弟子たちは困ってしまいました(9章33~37節)。
「イエス様が家のかしらであって、すべての話し合いに耳を傾けている目に見えない聞き手であること」を語る文が額にはめられて壁にかかっている家があります。イエス様はあなたがたの家でどのようなことを聞くことになってしまったのでしょうか。そして、それでもイエス様はまだそこに住んでくださるのでしょうか。

7)新約聖書はイエス様の互いに正反対であるようなふたつの御言葉を書き留めています。それらは、「私たちに反対しない者は、私たちの見方です」(マルコによる福音書9章40節)と「私の側ではない者は、私に反対する者であり、私と共に集めない者は、散らすのです」(マタイによる福音書12章30節)というものです。互いに異なる御言葉には、それぞれ別の背景があります。どのような状況にこれらの御言葉はそれぞれ合致しているのでしょうか。

8)他の人たちを信仰から引き離すように誘惑する人々は非常に厳しい裁きを受けることになる、とイエス様は言われています(9章42節)。牧師や教師や両親たちが、ここでイエス様が警告なさっている「惨めな結末」を避けるためには、どうしたらよいのでしょう。

9)イエス様は「御自分に属する者たち」に、信仰生活の「目的」をはっきり心に刻んでおくように忠告なさっています。人が神様の御国の中に入ることの大切さに比べたら、他のことは何の意味も持たないほどです。また、もしも人が地獄に落ちてしまうならば、人生でどんなに立派なことを実現したとしても、何の役にも立ちません。
どのような誘惑が、私たちクリスチャンにとってとりわけ危険なものでしょうか。はたして私たちは、イエス様が要求されているように、目を覚ましていて、神様の御国のためならばどのようなことでも捨て去る用意ができているでしょうか。

10)49節にある「火」とはどういう意味でしょうか。

11)塩で味付けなければならないささげものについてのイエス様の御言葉はどういう意味なのでしょうか。「ささげもの」とは何であり、「塩」とは何なのでしょう。どのようにして「塩の味」が抜けてしまうのでしょうか。