終わりのメッセージ
「もしも滅びの裁きを宣告する任務が光栄なものだとすれば、義を宣告する任務は、それよりもはるかに栄光にみちたものです。」(コリントの信徒への第2の手紙3章9節)
ここで使徒パウロが書いていることをクリスチャンはきちんと学ぶようにしてください。異端教師の権威ぶった教えや、悪魔のわなである「人を苦しめる考え」などは気にしないように!悪魔は律法を引き合いに出して、人が義を自分自身の行いによってさがしもとめるようにしむけ、「救われるためには、お前は本当はあれもこれもやらなければならなかったのだ」などという考えを吹き込んで、あなたの心をいたぶります。しかし、あなたは悪魔からその武器をうばいとってこう言わなければなりません。
「なぜお前は律法や行いを引き合いに出して私をいたぶるのか。お前がどんなに長く説教したとしても、罪や死や地獄を私の上にかき集めてくるだけではないか!そんなことをしても、私は神様の御前で自分の義をいただくことはできないのだ!」
聖パウロがこの箇所で「律法の栄光」について書いていることがらは、ユダヤ人の教師たちが自分の行いを誇るときに引用する箇所でもありますが、もともとは出エジプト記20章と34章にある出来事にもとづいています。そこでは、神様が王にふさわしい大いなる栄光をまとって天からおりてこられたときに律法がどのようにして与えられたか、について語られています。稲妻の閃光と雷動のなかでシナイ山全体が炎に包まれました。律法の板をかかえて山からおりてきたモーセの顔はあまりにも輝いていたため、イスラエルの民はモーセを直視することができず、モーセは顔に覆いをかけなければなりませんでした。ユダヤ人の教師たちがあまりにも自分の行いを誇り高ぶっているために、聖パウロは次のようなことを一息に話し始めたのでした。
「たしかにこれも王様の栄光ではあります。しかし、この栄光は人を神様から逃げ出させ、死と地獄に追いやることしかしません。それとは逆に、私たちにはまったく異なる「任務」の栄光があり、これについて私たちは誇りを持っています。マタイによる福音書17章2~4節の福音によれば、キリストは太陽のように輝いている御顔の栄光を、弟子たちがはっきりと見れるようになさいました。弟子たちは逃げ出したりはせず、そのお顔にうれしそうにうっとりとみとれていました。そしてこう言いました。「主よ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。もしもお望みでしたら、私たちはここに三つの幕屋を立てたいと思います。」。」
これら二つのイメージをくらべてごらんなさい。そうすれば、使徒が何を意味していたのかが、わかります。前にも言ったように、律法は、その光が私たちの心の奥まで照らして、私たちがそれを本当にしるようになったときには、どんな人にも恐れと死をもたらすだけなのです。それとはちがって、福音は、慰めと平和と喜びとを与えてくれます。
フレドリック・ガブリエル・ヘドベルグ (「救いへの唯一の道」)