誰が一番えらいのでしょうか?
マルコによる福音書10章
離婚についてのイエス様の教え 10章1~12節
マルコによる福音書の1章から8章までは、ガリラヤでのイエス様の活動が描かれています。イエス様がいくつかの例外を除けば、とても狭い地域で活動なさっていたことを、ここではおさえておきましょう。イエス様は、今までは真の中心地、エルサレムには来られませんでしたが、この10章ではとうとうユダ地方に到着されました。イエス様の周りに集まった大勢の人たちの運動については、もちろんエルサレムにもすでに知られていました。それゆえ、緊張した雰囲気の中で、ファリサイ人たちはイエス様がどのようなお方か確かめようとしたのでした。イエス様の教えの信憑性を試すため、はじめの質問として「離婚」がとりあげられました。結婚はユダヤ人たちにとって聖なるものであり、神様御自身が設定なさったものです。申命記24章1~4節は、夫が妻を離婚して立ち去らせようとする場合には、妻に離婚証書を与えるようにと、要求しています。これについてどう思うか、イエス様は質問を受けました。それに対してイエス様は、ユダヤ人のやり方に従って、逆に質問を投げかけることによってお答えになりました。「モーセは夫が離婚証書を書いて妻を捨てることを許している」とファリサイ人たちは考えていました。しかし、イエス様はこれとは違う教えをなさいます。それは、「離婚証書についてのモーセの規定は、夫のかたくなな心に対して妻を守るために与えられている」というものです。すなわち、心をかたくなにした夫が妻を捨てる場合には、彼は妻に「この女は新たに結婚することができる」ことを証明する文書を与えなければなりません。当時、夫から捨てられた女性は、再婚しない場合には、貧窮するか、あるいは、娼婦になるか、事実上この二つしか選択肢がなかったのです。離婚は神様の創造のみわざの目的に沿ってはいません。結婚は神様が設定なさったものであり、そこでふたりの人が「ひとつの肉」となり、彼らはひとつの存在となるのです。神様がこうして男と女をひとつに結び付けてくださったので、人はもはや結婚という契約を取り消すことができません。モーセは離婚を許したのでは毛頭なく、逆に、心をかたくなにした夫の恥知らずな数々の行いから、女性を守ったのです。弟子たちに対しては、イエス様はこの問題についてさらに、「離婚の後の再婚は神様の御心に反することであり、罪である」と教えられました。力強い教えによって、イエス様は女性たちを、それまで彼らがユダヤ教の社会の中ではもちえなかったような「立場」に引き上げました。妻を捨てる者は、神様に対してだけではなく、妻に対してもまた、罪を犯しているのです。女は、男たちの話題にあがる「物」などではありません。困窮するか娼婦に身を落とすかの選択を、男が勝手に女に迫る権利などもありはしないのです。神様は人を男と女として創造なさり、男と女はひとつの肉となります。イエス様は、御自分の行いによって、その教えをどのように実行するべきか、示されています。マルタとラザロの姉妹マリアは、たんにすばらしい給仕であっただけではありません。彼女はまずもって、主の足元で主の教えに聞き入っている「弟子」でした(ルカによる福音書10章38~42節)。
悪いうわさが立てられることも気にせずに、イエス様は女たち(中には未婚者も既婚者もいました)に、御自分と共に行動しその教えに従うことを許されました(ルカによる福音書8章1~4節)。女たちはまた、イエス様の復活の知らせを伝えるために、空っぽの墓から駆け出して行きました。初期の教会はイエス様のはじめられた革新的なやり方から逸脱したりせずに、イエス様の教えに忠実に活動をつづけました。女性は、男性と同様に、最初から「教会の会員」でした。たとえば、聖書で名が挙げられている最初のヨーロッパのクリスチャンはルデアという女性です(使徒の働き16章11~15節)。女性はまた、教会で積極的に活動していました。たとえば、ローマの信徒への手紙16章にある、9人の女性たちへのパウロの挨拶や、プリスカの活動(使徒の働き18章24~28節)などが挙げられます。にもかかわらず、教会の牧師職は男性だけのものであるという制限が与えられています(コリントの信徒への第1の手紙14章33~40節)。ここで教会は「主の命令」(37節)に全幅の信頼を寄せて、使徒の職に男性だけを選ばれたイエス様を模範としているのです。