「ヨハネによる福音書」3章
第3回目の質問
1)「ヨハネによる福音書」には
聖餐や洗礼の設定についての言及がありません。
そればかりか、洗礼や聖餐について、
比喩的にはしばしば触れられているにもかかわらず、
直接には何も語られていません。
それはなぜでしょうか。
2)イエス様は、「新たに、上から生まれること」について話されます
(この言葉の原語にはこのようにふたつの意味があるのです)。
ニコデモはこれをどのように理解したのでしょうか。
本来どのように理解するべきでしょうか。
3)「新生」とは、体験なのでしょうか。
それはたんなる体験なのでしょうか、
あるいは、体験をその一部に含むより大きな何かなのでしょうか。
何も具体的に体験していない人間は、
「新しく生まれている」と言えるのでしょうか。
あなたは新しく生まれていますか。
洗礼において新しく生まれること(「テトスの手紙」3章3~5節)や
御言葉を通して新しく生まれること(「ペテロの第一の手紙」1章23節)
について、新約聖書が何と言っているか、調べてください。
また、新約聖書が幅広く死と命について何と言っているか、考えてみてください。
4)蛇とそれを高く上げることについて話されるとき、
イエス様は何を意味しておられるのでしょうか。
「民数記」21章4~9節を読んでください。
5)どのようにしてイエス様は「挙げられ」ましたか(3章14節)。
6)3章22~24節は、
イエス様の弟子たちが洗礼を授けていたことについて語っています
(4章2節を参照してください)。
この洗礼とヨハネの洗礼との関係はどのようなものでしたか。
それはすでに、父と御子と聖霊の御名による洗礼だったのでしょうか、
それとも罪を悔いて告白することを示すだけのものだったのでしょうか。
7)洗礼者ヨハネは、
人々が自分のもとを離れイエス様に従うようになったとき、
嫉妬の念をいだいてもおかしくはなかったはずです。
ところが、ヨハネは自分を花婿の幸福を喜ぶ花婿の友人とみなしました。
このイメージにおいては、誰が花婿で、誰が花嫁でしょうか。
8)3章36節は、「ヨハネによる福音書」が
後ほど再び触れることがらを提示しています(14章6節!)。
神様の愛はイエス様の中に、その中だけにあります。
このようにキリスト教は、
ほかのすべての宗教をその外部に閉め出して、
それらが滅びへの道であることを宣言します。
一方では、キリスト教は、
この世のすべての人々を内に包み込みます。
天の御父様の御許へのドアは、イエス様を通して、
すべての人に開かれているからです。
このふたつのことを一緒にして理解するのは簡単なことですか。