2013年1月14日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 4章1~42節 イエス様とサマリアの女の対話(その2)


 
イエス様とサマリアの女の対話 4142節(その2)



町の外から真昼間に女が井戸に水を汲みにくることに、
多くの聖書釈義者は注目しました。
おそらくこの記述は、
イエス様が女の人生についてごらんになったことと関係しています。
この女は罪人であり、周囲から蔑まれていました。
多くの男と関係を持ったこの女が
他の女たちの一団が水を汲みに来る時間帯を避けるのは当然です。
彼らと同じく、イエス様にもこの女を避ける理由が十分あったにもかかわらず、
女自身が驚いたことに、イエス様のほうから女に話しかけられたのです。
中東の乾燥した地域では、水は貴重な自然の恵みです。
ヤコブが非常に労苦して掘った深い井戸の傍らでこの対話はなされました。
  
「活きた水」についてのイエス様の話は驚くべきものでした。
女はそれをすぐに誤解して、
イエス様は隠された泉について話しているのだと勘違いします。
イエス様の言われる「水」は、それとはまったく別のものでした。
イエス様はここで具体的な言葉で説明なさっているわけではありませんが、
「ヨハネによる福音書」の読者はその答えをちゃんと知っています。
主が意味されているのは光、真理、神様から賜った命のことです。
イエス様に出会う者は人生の真の目的を見出し、
もはやほかのことは願わなくなります。
  
旧約聖書の預言者と同じく、イエス様は人の心を直接ごらんになります。
女のその場しのぎの言い逃れも見透かされました。
それで女は自分の人生のことから
さしさわりのないことへと急いで話題を変えます。
そして、
「どこで神様を礼拝するべきか、ゲリジム山か、それともエルサレムか」、
という昔からある難問をもちだします。
イエス様の答えは「ヨハネによる福音書」でおなじみのものでした。
「そのどちらの場所でもなく、御霊と真理においてである」、というのです。
この御言葉は、とくにエルサレムの滅亡の後に大切な意味を帯びました。
その時には神様の唯一の神殿は破壊されていたので、
場所はどこであれ神様に祈るようになりました。
「御霊と真理」というのは、
礼拝所をある一定の場所に固定するあり方と正反対のものです。
「ヨハネによる福音書」の読者として、私たちはこの意味を知っています。
私たちは御子に結びつくことで御父を正しく礼拝することができます。
どこで御父に祈りの叫びをあげたとしても、それは変わらないのです。