2012年10月15日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章10~17節 イエス様のお話(その1)


  
イエス様のお話 221017節(その1)
   
  
ここでイエス様は
「ヨハネの黙示録」での最後の話をなさいます。
はじめにイエス様は、
ヨハネがこの書物のメッセージを
あらゆるところに伝え広げていくようにと、
お命じになります。
「ダニエル書」にはこれと正反対の命令があります。
ダニエルは、
「書物を後になってから公にするべく、今は隠しておくように」、
という命令を受けます(「ダニエル書」826節)。
これら二つの互いに正反対の命令は、
次のようにして説明できるでしょう。
ダニエルの時代は、
神様の救いの歴史において、
ダニエルに示された幻をまだ秘密にしておいたほうがよい
神様が判断された段階に相当していました。
ヨハネの時代には状況が変わっていました。
神様の御子の地上での働きはすでに過去のこととなり、
この方が地上に戻ってこられる時がすぐそこまで来ているので、
この時点で神様の救いの歴史は、
ヨハネが観たり聴いたりしたことを
私たち皆が知るべき段階に達していた、というわけです。
  
11節は難解な箇所です。
不義な者はさらに不義を重ねて生きていくように勧められ、
聖なる者はより聖なる道を歩んでいくように命じられています。
これはどういう意味でしょうか。
「ヨハネの黙示録」は、
イエス様を知らない人に対してではなく、
クリスチャンに宛てて書かれています。
この箇所は、
「不信仰の中に留まり不義の生活を送るように」、
という勧告ではありません。
その目的は、
神様の教会に語りかけて、次のように言うことです、
「あなたがたは、
不義の世が神様とその御心を無視しているのを目にしています。
あなたがたはそれとは反対のことをしていきなさい。
不義の世が不義に留まり、
神様の御言葉が言っていることとはちがう生き方をし、
神様に対して戦いを挑んでくるのは、
ある意味で自然であろうとも言えます。
神様の教会が聖なる生活を送り、
信仰に留まり、神様の側に立って戦うのも、
それと同じくらい自然なことであるべきです」。
私たちは神様からいただいたものを守り抜くべきなのです。
もしもそれを失くせば、
イエス様の再臨の時に、
私たちもまた不義の世と共に裁かれることになってしまいます。


(次回の投稿は一週間後になります。翻訳者より)