最後の裁き 20章11~15節(その2)
「人は各々、自分自身の行いに応じて裁かれる」、
とヨハネは言います。
これはしかし、
「イエス様を信じる者は救われる」、
と私たちが言うことと矛盾しているのでしょうか。
矛盾はありません。
最後の裁きにおいて、
世界中の人間全員が自分自身の行いに応じて裁きを受けます。
罪のない人は一人もいないので、
人は皆、自分の悪い行いを神様に見せなければならなくなります。
救い主をもたない人々は、
自分自身の罪と共に神様の御前に出なければならず、
彼らはそれら罪のゆえに裁きを受けるのです。
罪を帳消しにしてくださったお方が避け所になっている人々に対しては、
神様の御前では「罪がない」のです。
すべての罪はイエス様のゆえに赦されており、
神様が赦してくださったことは、神様の目にはもう入らないからです。
信仰を通してイエス様を「自分の主」として迎え入れ、
イエス様を通して神様の恵みをいただいている人だけが、
最後の日に神様の御顔の前で耐えることができるのです。
「行いに応じて裁きは下される」
(「ローマの信徒への手紙」2章6節)とパウロも書いていますが、
彼は、
「イエス様に避け所を求める人だけが救われる」
(「ローマの信徒への手紙」3章23~26節)とも教えています。
ルターは、「喜ばしい交換」について語っています。
それは次のようなことです。
イエス様は、
私たちの罪と、それゆえに私たちが当然受けるべき罰とを、
肩代わりしてくださいました。
これらすべてを私たちはイエス様に譲り渡したのです。
イエス様は私たちに
御自分の無垢さ(罪のまったくないこと)と
清さと聖さを与えてくださいました。
私たちは「イエス様のもの」であるときに、
イエス様の本性とみわざとの善さすべてを「自分のもの」としています。
私たち自身の悪さと悪い行いは、イエス様に譲り渡されています。
神様が「キリストのもの」である人をご覧になるとき、
神様は御子の聖さと善きみわざのみに目を留められます。
こういうわけで、
「イエス様のもの」である人には、
裁きを受ける原因となるような「悪い行い」はないことになります。
それら悪い行いは、イエス様の善きみわざに取って代わられるからです。
救い主を受け入れないままで裁きを受ける人々には、
残念な結末が待っています。
彼らは聖なる神様の御前で耐えることができません。
彼らには最悪の裁きが下されます。
彼らは「火の湖」、つまり悪魔がいるのと同じ場所に投げ込まれます。
自覚はなかったのかもしれませんが、
彼らはこの世で「悪魔のもの」であるグループに所属していたのです。
彼らの受ける罰は、彼らの親分が受けるのと同じものです。