2011年11月3日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第2回目の終わりのメッセージ 

 
終わりのメッセージ 
 
 
憐憫 
  
 
私たちの救い主は人々のことを憐れに思われた、と聖書はしばしば語っています。
イエス様は民の群れをかわいそうに思われました
(「マタイによる福音書」9章36節)。
目の見えない人々や重い皮膚病に罹っている人々を憐れんでくださいました
(「マタイによる福音書」20章34節、「マルコによる福音書」1章41節)。
イエス様のたとえ話の中に登場する王は負債を抱えた僕のことを不憫に思われました
(「マタイによる福音書」18章27節)。
大祭司としてイエス様は私たちの弱さに同情してくださいます
(「ヘブライの信徒への手紙」4章15節)。
  
私たちの普通の理解では、「憐憫」という言葉には、
同情や冷めた憐憫の態度を遠くから示すことなどが含まれています。
私たちは自分では憐憫の対象になりたくはありません。
ところが、新約聖書では、この言葉は完全に肯定的な意味で用いられています。
この言葉は心の奥底にある気持ちや憐れみ深い愛について語っており、
共に苦しむ温かい心をあらわしています。
 
イエス様が憐れに思われるとき、
イエス様の深い憐れみの愛がすぐそばまで来ています。
イエス様のたとえ話の中の王は
負債を抱えた僕にその莫大な負債を帳消しにしてあげました。
このことは、
自分の不信仰に苦しめられ弱く虐げられている人が皆、
憐れみと恵みによって助けていただくため、
「大胆に」(「ヘブライの信徒への手紙」4章16節)
恵みの御座の前へと歩み出るよう、促してくれます。
   
この道は、行き止まりで立ち往生している人々に対しても開かれています。
この恵みは、貧しい人々にも無料で提供されています。
この助けは、死人のように無力な人々へも差し出されています。
   
イエス様は憐れに思い、愛してくださいます、今日もまた、あなたのことを。
  
(ラウリ コスケンニエミ 「恵みは近くに」)