2011年11月11日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章7~13節 フィラデルフィアの教会への手紙(その1)

フィラデルフィアの教会への手紙 3章7~13節(その1)
 
 
フィラデルフィアにはしばしば地震が起こりました。
そのためもあって、
それは、富裕ではあるものの、かなり小さな都市のままでした。
地理的にはサルデスの近くに位置していましたが、
教会はサルデスの教会とはまったくちがっていました。
サルデスの教会はイエス様から叱られるべき点が多くあったのに、
フィラデルフィアの教会はまったく叱られていません。
フィラデルフィアの教会に送られた手紙には、
スミルナの教会へ送られた手紙と似ている点がたくさんあります。
どちらの教会の会員にも「冠」が約束されています。
幾多に困難の只中にあっても、彼らはイエス様への信仰を捨てませんでした。
それゆえ、彼らには天国が待っているのです。
冠はその天国をあらわしています。
また、どちらの教会にも共通の敵がいます。
ユダヤ人たちは、
スミルナのクリスチャンもフィラデルフィアのクリスチャンも迫害しました。
それで、どちらの手紙にも「サタンの会堂」が出てくるのです。
  
7節で、イエス様は「ダヴィデの鍵の持ち主」である、と言われています。
イザヤ書には、ダヴィデの宮殿の管理を任された
ヒゼキヤ王の役人についての話が出てきます。
この忠実な役人には、宮殿のあらゆる部屋と倉庫を開け閉めする権利がありました。
このことの証左として、その役人の肩には鍵がかけられていました
(「イザヤ書」22章22節)。
イエス様には、これよりもさらに大きな権能があります。
イエス様は「死と地獄の鍵」をお持ちなのです
(「ヨハネの黙示録」1章18節)。
イエス様には人々を天国に入れる権能も、滅びへと裁く権能もあるのです。
イエス様がある人に天国の門を開けてくださるならば、
誰もそれを閉じることができません。
イエス様がある人に対して天国の門を閉じる場合には、
誰もそれを開けることができません。
   
8節ではふたたび、「開かれた門」が出てきます。
これは、フィラデルフィアの教会に開かれた伝道の機会を意味していると思われます。
パウロもまた、彼に開かれた伝道の可能性に関して同じような表現を用いています
(「コリントの信徒への第一の手紙」16章9節にも「門」という言葉があります)。
フィラデルフィアの教会はイエス様とその御言葉への忠実を守り、
困難の最中にあっても主を否認することはありませんでした。
まさにそれゆえに、
イエス様は御自分に属する人々に委ねた仕事を通して教会を用いてくださったのです。
主を捨てた教会は、伝道という仕事に関しては、まったく役に立ちません。