2011年11月23日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第3回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ
 
 
信仰を捨てることについて

 
 
人が信仰を捨てることになるのは、
その人の弱い信仰のせいではありません。
弱い信仰の人は、
それなしでは生きていくことができないもの(つまり信仰)を
しっかり保ちつづけるものだからです。
人々の心を最近再び支配するようになった自分の力に頼る考え方こそが、
信仰を消滅させてしまうのです。
私たちの生きている現代では、
このような自己中心的な考え方が
クリスチャンの心をも次に述べる二通りのやり方で支配しているように、
私には見えます。
  
大多数の人は時代の風潮に流されていくことで、信仰から離れていきます。
この世で成功しお金持ちになることが、彼らの人生の全目的になっています。
「皆そうして生きているではないか」、と彼らは言います。
知らず知らずのうちに、
彼らはすべてを自分の手中に収めようとする人間になってしまいました。
一方で彼らは、今までは生活の一部だった
神様の御言葉、クリスチャンの交わり、礼拝、聖餐式などを
次々と捨て去っていきます。
それらは晩秋の木々の葉っぱのようにはらはらと地面に落ちていきます。
こうして信仰の根っこが乾いてしまうのです。
「我々は周りから見ても立派に見える生き方をしてきたし、
宗教的な伝統を重んじている。
ちゃんとそれらに参加もしている」、
と彼らは弁解します。
ところが真の人生はすでに失われてしまっているのです。
  
人々を支配するもうひとつのものは、人々を眩惑する新しい考え方です。
その倫理的な魅力と社会的な正義は彼らにとって魅力的です。
これらを盾にして多くの人は社会批判の武器を手に入れました。
もちろん社会の中には批判されるべき点が沢山あります。
彼らはキリスト教の価値観にもとづいて社会批判を始めるのですが、
不思議なことに、
いつの間にか救い主との個人的な交わりが薄くなっていきます。
その代わりに、
社会問題の解決を考え続ける終わりのない試みが
生活の中心を占めるようになります。
彼らは元々は、
「救い主に頼るか、自分の力で問題を考えるか」、
という二者択一をするつもりはなかったのですが、
結局は後者を選ぶことになったのです。
しまいには彼らは、
あの拝金主義の人々と同じように、
自分の力に頼る者に成り果てました。
このことは、
彼らがもはや聖餐式を必要とせず、
クリスチャンの交わりよりも他の人間関係を大切にするようになり、
御言葉を生活の隅に追いやっていることなどからわかります。
こうしてまた信仰の根っこが切れてしまいました。
それとともに、命との関係も切れてしまいました。
    
(ラウリ コスケンニエミ 「今日私と共にいてください」)

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