2011年2月28日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」10章14~22節 

    
主の聖餐と偶像礼拝 10章14~22節
  
ようやくこの段階で、「偶像に捧げられた肉と、それを異教の神殿で食する問題」に答えを与える時が来た、とパウロは考えています。
パウロはこの世に存在するものの中で最も聖なるもの、「主の聖餐」、をこの問題の答えとして取り上げます。
彼がこの聖礼典について触れているのは、この手紙のみです。
しかし彼はここで、聖餐式の非常に大切な意味を誰にでもはっきりわかるやり方で語っています。
おそらく16節は、アラム語を用いていた古教会の信条を含んでいます。
アラム語による設定辞ははっきりわかりませんが、その内容はいたって明瞭です。
私たちが感謝する杯は、キリストの血にあずかることであり、私たちが裂くパンは、キリストのからだにつらなることです。
ひとつのパンを食することは、聖餐に参加する者皆をひとつのキリストのからだとします。
そしてこのことは、偶像礼拝を行うことを不可能にします。
  
コリントの信徒たちが言っているように、偶像には何の意味もなく、それらに捧げられた犠牲にも何の意味もありません。
とはいえ、異邦人は、悪魔、デーモンに犠牲を捧げており、それによって、それらとつながりをもっています。
クリスチャンはこういう暗闇のこととは決して関係しないように、慎重に行動しなければなりません。
時には主の聖餐につらなり、時には悪魔の食卓につく、というのはありえないことです。
偶像礼拝者は、聖餐式にあずかることができません。
聖餐式につらなる者は、偶像の神殿に行って犠牲の食卓についてはいけません。
あるコリントの信徒たちは巧妙なやり口でこの問題を回避しようとしました。
全知全能の神様の御前では、こうした人間の小賢しさは意味をなしません。
この問題が教会内部を分裂させ続ける限り、コリントの信徒たちは神様には申し開きができません。
そういうわけで、このことについて争いはじめたりせずに、偶像をたたえる犠牲の食卓などには参加しないのが、最善なのです。
神様は「熱情の神」です。
この熱情は、激しく嫉妬する愛です。
この愛は、神様への愛を奪うような競争相手に私たちがなびくことを決して認めません。
それゆえ、「主のもの」である人は皆、偶像礼拝との関係をはっきりと断ち切らなければなりません。
    
私たちの時代の偶像礼拝は、さまざまな様相を呈しています。
はっきりとした偶像礼拝には見えないスマートなものとしては、お金を大切にしすぎて神様のことを忘れてしまう、というタイプがあります。
人気歌手やトップ・レヴェルのスポーツ選手を自分のアイドルとして拝むのは、すでに不健康な要素を含んでいます。
よりあからさまなタイプは、ホロスコープや占い師を対象とした偶像礼拝です。
現代人は、自分には教養がありすぎて、キリストをそのまま受け入れることなどできない、などと思い込んでいます。
ところが一方では、現代人は古くからある異教的な考え(たとえば、星を神々とみなすとか、星には人間の運命が書き込まれているとか、といった類の迷信)を平気で鵜呑みにしています。
それよりもさらにひどいタイプは、フリーメーソンとそれに関連するいわゆる「聖なる食卓」です。
これらのことがらに関して、主の御言葉の答えはまったく明瞭です。
このような食卓やグループとは、信仰者は何の関わりも持つべきではありません。